沼田氏縁起

「紋ノ図」(三ツ目結)越中沼田氏は鎌倉幕府の御家人であった沼田七郎家通(いえみち) を氏祖とする。沼田七郎家通は、平安時代末期、筑後守波多野遠義の六男として生まれ 相模国(現神奈川県)足柄郡沼田邑を根拠地としたため、沼田氏を称したとされる。 

■氏祖沼田七郎家通                      加賀藩の役人であった宮永正運が天明6年(1786年)に著した 大著「越の下草」(昭和55年富山県郷土史会復刊)は、蓑輪村に ある沼田太郎右衛門碑の碑誌の全文を載せ、沼田氏の氏祖を家通と 記す。                            また「尊卑分脈」(前田家所蔵本)によれば、筑後守波多野遠義の 子として、波多野義通、河村秀高、廣沢、波多野実方を載せるが、 「波多野系図」では、波多野遠義の子に、波多野義通、河村秀高、 大友経家、波多野義景、菖蒲実経、沼田家通、河村実親をあげ、こ ちらが定説とされる。                     相模(現在の神奈川県)に拠った波多野一族は、源頼朝挙兵当時に は平氏大庭景親方であったが、後に頼朝方についたという。     

源頼朝挙兵当時の相模の武士の色分け波多野、菖蒲、松田、河村、大友、沼田氏は 波多野氏族。一族は当初平氏についていたが、後に源頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家 人となった(地図原本『足柄の歴史』昭和42年本多秀雄著、国立国会図書館蔵)

■波多野経範と波多野氏                    波多野氏は相模守藤原公光の次男経範が、摂関家領相模国余綾郡波 多野荘を領し、波多野を氏号とした。当時はこのように領地の地名 を氏号としたようである。沼田家通の長兄波多野義通は、波多野経 範より5代目に当たる。7代目波多野義重(出雲守)は六波羅評定 衆として在京、地頭職を持つ越前国志比荘に道元を請じ、永平寺を 創建した。                          ■大友四郎経家                        大友経家は上野国利根郡を領した利根四郎のこととされる。経家の 娘利根局は源頼朝の侍女であったが、承安2年(1172年)に頼 朝卿の側室となり、後、斎院次官中親能原の妻となった。利根局の 子が大友能直で、頼朝卿が征夷大将軍に任ぜられた翌年の建久4年 (1193年)、頼朝卿より豊前と豊後の守護を命じられ、同7年 に豊後に下り九州大友氏の祖となった。             ■上野国沼田太郎                       大友経家の子、利根局の兄妹に実秀があるが、彼は利根郡沼田郷に あって、沼田太郎と称したらしい。               「吾妻鏡」(北條本)によれば、建久元年(1190年)11月7 日條に、源頼朝が後白河法皇の召しに依って上京した時の先陣随兵 の中に、上野国(現在の群馬県)の沼田太郎の名が見える。『沼田 町史』(昭和27年8月群馬県沼田町発行)によれば、大友経家の 嫡子実秀が太郎と称していたことと、大友経家が利根郡司であった とする記録(大友木村氏系図)をあげて、この実秀が沼田太郎であ るとする。そして、大友実秀が「沼田」を称したのは、大友四郎経 家の弟に沼田六郎(菖蒲実経)、沼田七郎(家通)があったためと いう(『沼田町史』)。                    ■相模国沼田氏族                       「吾妻鏡」(北條本)に沼田七郎の名が見えるのは、建暦3年(1 213年)5月2日の合戦であり、この日に七郎は討死している。 「吾妻鏡」には沼田氏の名はいくつか出てくるが、上野国の沼田氏 を指す時は、必ず「上野」と併記されることから、併記のない沼田 氏は相模国の沼田氏をさしていると見られている。        沼田家通は筑後守波多野遠義(4代目)の6男である。兄には波多 野二郎義通(5代目)、河村三郎秀高(山城権守)、大友四郎経家、 波多野五郎義景、菖蒲実経(沼田六郎)があり、弟に河村八郎実親 がある。                           家通の嫡男は三郎家光(2代目)で、その後、五郎家村(3代目)、 五郎三郎家政(4代目)、又二郎助家(5代目)と続く。    ■圓珠姫伝説                         日本最古の五十音順国語辞典「和訓栞」(谷川士清著、江戸時代中 期)には、「上野国沼田三郎家政の女が名誉の歌ありて、後伏見院 の御製を賜れる」とある。また「越の下草 」(天明6年宮永正雲著 )も次のように記す。                     上野国沼田ノ庄ノ領主、沼田五郎藤原家政は俵藤太秀郷11代 の孫也。家政が女、圓珠姫とて和歌を得たる者あり。     其歌に、                         いとはやき梅の匂ひの花ごろも              春より先にほころびにけり         龍田山もみぢをわけて入月は              錦につつむ鏡なりけり         後伏見院叡覧ましまして忝も御製を下さる。          上野や沼田のさとに圓なる              珠のありとは誰かしらまし      沼田五郎三郎家政は相模国の人と推定されるも、江戸時代に書かれ た書物では上野国の人とするものが多い。また後伏見院(天皇在位 1299〜1301年)の御製(和歌)を賜った圓珠についても、 家政の娘とする説の他、豪族川田四郎の娘とする説他異説が多い。