越中沼田氏系

安養寺城勝興寺跡(富山県小矢部市末友) 越中沼田氏祖、沼田太郎右衛門高信が侍大 将を務めた安養寺城勝興寺は浅井長政、朝倉義景、武田信玄、毛利氏、本願寺顕如から なる織田信長包囲網の一翼を担い、越中にあっては瑞泉寺と並び1世紀にわたって砺波 郡一帯を支配し強大な勢力を誇った。また、永禄3年(1560年)に神保長職が上杉 謙信に破れ富山城が上杉方にわたってからは、十数年にわたり上杉謙信の西進を阻み続 けた。その後勝興寺は上杉謙信と和睦し、一致して織田信長に当たる。天正9年、織田 信長の盟友石黒左近(越中木船城主)は、院主顕幸の石山合戦に本願寺加勢のため家臣 を引き連れた留守を窺い、深夜に奇襲した。勝興寺はここに焼失、高信の子息沼田甚吉 高友も討死にする。勝興寺は後に信長の武将佐々成政と和を結び、神保氏張より居城古 国府城(現富山県高岡市伏木)を成政の折紙を添えて贈られ、勝興寺は再興することと なった。江戸時代は、加賀藩主前田家の8男が住職となるなど、加賀藩の手厚い保護を 受けた。現在は、本堂、総門、経堂が国の重要文化財指定を受けている。沼田総本家の 菩提寺でもある。                               

■越中沼田氏          越中沼田氏は、秀郷流波多野氏に属した鎌倉幕府の御家人沼田七郎 家通(相模国沼田邑)を氏祖とし、その嫡流である勝興寺の軍将沼 田太郎右衛門高信が越中蓑輪邑(現富山県小矢部市蓑輪)に根を下 ろしてからは、津沢地方を中心に増え拡がった。総本家は今も蓑輪 にある。                           『雲龍山勝興寺系譜』によれば、高信の嫡男は沼田甚吉高友であっ て、天正8年(1580年)2月に木船城主石黒左近が勝興寺を攻 めた時、高友は軍将2人を討ち取った。天正9年には、院主顕幸が 石山合戦に本願寺加勢のため家臣を引き連れた留守を窺い、石黒左 近は再び勝興寺を夜討した。家臣木戸刑部、同主計ら、士卒僧俗に 下知し秘術を尽くし血戦し、敵将数多を討捕したものの、家士では 沼田高友が軍中に討死にした。しかも敵手の一軍、間近より放火し 之を防ぐこと誰もできず。折しも烈風激しく、ついに坊舎殿閣は灰 煙となったとある。                      沼田太郎右衛門高信碑誌では、天正8年2月に木船城主石黒左近の 軍将2人を討ち取ったのは、高信碑を建立した沼田将曹秀友の祖先 でもある沼田甚五高友といい、『雲龍山勝興寺系譜』と微妙な違い を見せる。『沼田一族祖先の歩み』沼田会発行、平成8年)の著 者沼田與吉は、昭和58年に出した『沼田家系図』でこの問題に初 めてメスを入れ、天正9年に勝興寺で討死したのは兄の甚吉高友で この弟が蓑輪本家につながる甚五高友であることを明らかにした。 嫡流は沼田甚五高友であって蓑輪沼田姓と呼び、沼田甚吉高友の子 孫を戸久沼田姓という。                   

雲龍山勝興寺系譜抜書 沼田太郎右衛門高信や沼田甚吉高友について 記された「雲龍山勝興寺系譜」の部分を書き写したもの。今日では「 雲龍山勝興寺系譜」は復刻版(明治27年)の形で見ることができる。 (蓑輪総本家蔵)                        

■蓑輪沼田姓                         蓑輪沼田姓は越中沼田氏の総本家であって、氏祖沼田七郎家通より 19代目に当たる、勝興寺軍将沼田太郎右衛門高信を高祖とする。 高信には長男甚吉高友があったが、天正9年(1581年)に石黒 左近との戦いで勝興寺で討死し、次男の甚五高友が跡を継いだ。 

藤姓沼田氏系図 大織冠藤原鎌足から波多野経範沼田家通を経て、 沼田太郎右衛門高信に至るまでの系譜、および高信から沼田将曹秀友 に至るまでの系譜が記される。                  (寛延年間頃加賀藩家老津田玄蕃家臣沼田将曹秀友記、沼田総本家蔵)

●第20代 沼田甚五高友                 書を善くし人これを学ぶ者多し。寛永5年、蓑輪村に没す。嫡 男は太兵衛道友。また兄甚吉高友の遺児、太郎左衛門高実を養 子とし、西之嶋村(現富山県小矢部市西島)に分家させた。  ●第21代 沼田太兵衛道友                蓑輪村地侍。釈門を信じ老年に及び剃髪染衣。猿尾崎に一本の 松を植え、穴を掘りて中に籠り、三昧にて歳月を送る。明暦元 年没。長男太兵衛は蓑輪村に分家し屋号あなた。次男は市右衛 門で、跡を継いだ。4男の沼田清左衛門は加賀藩に仕え陪臣と なった。                         ●第22代 市右衛門                   蓑輪村で帰農。寛文11年(1671年)草高48石7斗。  現在の小矢部市蓑輪の沼田姓のほとんどは、この市右衛門の子 孫である。                        ●第24代 孫三郎                    亨保4年(1719年)草高32石6斗。同18年9月29日 巳之刻、加賀(現在の石川県)太田村石工竹井屋武兵衛宅を石 持人足ら出発し、10月2日朝蓑輪村に到着、石碑を孫三郎に 預け置く。10月16日、津田玄蕃敬修家臣沼田将曹秀友によ り、沼田太郎右衛門高信碑建立。              孫三郎の弟平兵衛は、清水村小字鴨嶋村に分家し、鴨島沼田姓 の祖となった。                      26代目孫三郎の次男清太郎は興法寺村に分家し、興法寺沼田 姓の祖となった。                     27代目孫三郎の子、六衛門は蓑輪村に分家(屋号ろくいもん さ)、その弟市三郎も同村に分家した(屋号いちさぶさ)。  28代目市右衛門の子半三郎も同村に分家(屋号はんざぶろう さ)、その弟権九郎も同村に分家した(屋号ごんくろさ)。  31代目の沼田市右衛門の弟沼田孫三郎は、沼田太郎右衛門高 信碑保存堂を再建した(大正元年)。現総本家当主は34代目 である。                        

市右衛門の草高 寛文11年当時の蓑輪総本家第22代市右衛門の草高 48石7斗2升7合が記される。分家した兄の太兵衛の草高は48石7 斗2升6合で、父太兵衛道友の草高をほぼ2分したことがわかる。   (寛文11年埴生村左次兵衛記、元禄5年同村半兵衛写、富山県立図書 館蔵)                            

■興法寺沼田姓                        興法寺村(現富山県小矢部市興法寺)は、天平年間頃に、砺波郡安 居村安居寺の下寺24坊の1つ興法寺があったため、この地名があ るとされる。        天正4年の上杉謙信の勝興寺侵攻の際、沼田太郎右衛門高信と刀を 合わせ戦った丹治叔信は興法寺葭谷の城主であったという。    ●分家初代 清太郎                     父蓑輪村孫三郎(26代目)。興法寺村へ分家。家紋四つ目結。 菩提寺は伏木勝興寺。屋号五番さ。             4代目源蔵は明治初期に家督相続。明治新姓沼田。同16年興 法寺村、安居村、上川崎村、下川崎村合4ケ村戸長。同26年、 第4代西野尻村長に就任。現在の当主は7代目である。    ■鴨島沼田姓                         鴨島(富山県小矢部市鴨島)の沼田一族は、沼田総本家の直接の分 家である蓑輪屋を本家とし、江戸時代中期に砺波郡清水村の小字で あった鴨嶋村に移り住んだのが、その始まりである。       『津沢町史の輪郭』(昭和9年田中吉郎著、小矢部市立図書館複写 本蔵)でも、「沼田一族は即ち之なり。本家はながく蓑輪にありて 此処にもその一族暫時に繁栄し鴨島に及ぶ」とある。       ●分家初代 平兵衛                    父蓑輪村市右衛門(23代目)。正徳元年(1711年)9月 8日清水村小字鴨嶋村へ分家。屋号蓑輪屋。家紋三つ柏。伏木 勝興寺門徒。2代目平兵衛の弟万右衛門は岩木村に分家(屋号 沼田様)。8代目沼田平作は明治5年砺波郡鷹栖村、鷹栖出村  合二ケ村組合長。同22年1月、砺波郡左加野村他11ケ村長。 同年4月、町村制施行に際し初代津沢町長に就任。同29年8 月複選制による初の県会議員となり、同36年まで政界で活躍 した。現当主は11代目。金沢市在住。         

初代津沢町長 沼田平作 嘉永4年生。明治22年、 新憲法による町村制が施行され、津沢町村等6ケ村と 他2村の一部が合併して、新しく津沢町が成立。沼田 平作は初代町長に就任。同29年複選制による初の県 議会議員となり同36年まで政界で活躍した。  

■西島沼田姓                         『津沢町史の輪郭』(昭和9年田中吉郎著、小矢部市立図書館複製 蔵)によれば「高信の蓑輪の地に地に定住や最初の分家を西島に設 け現在水島新西津沢に分布せる沼田一族は即ち之なり」とある。  一方、「先祖家系一巻記録」(天保14年神嶋村平右衛門記、神島 本家蔵)では「高友ノ嫡子 ○沼田太郎左衛門高実 但し西嶋光西 寺方ニ暫居住早世也」と記し、太郎左衛門の子甚五郎高安を西嶋村 仕兵衛の開田元祖と伝える(参考史料)。            仕兵衛は四兵衛家の最後の当主で、「新川郡紫根の作方一件」(嘉 永2年寄嶋村彦十郎等記、富山県立図書館蔵、『富山県史』所収) に、加賀藩紫根(染料の原料)植付方主付勢子役を任命されたこと が記されるなど、この地方の有力者であった。四兵衛家は西嶋村( 現小矢部市西島)の肝煎(庄屋)を代々務め、長らく四兵衛を襲名 した。                            「品々帳之写」(寛文10年埴生村左次兵衛記、富山県立図書館蔵 )では、西嶋村に肝煎四兵衛の名を載せ、62才とするため、この 四兵衛は慶長14年(1609年)生まれとなる。この四兵衛こそ 甚五郎高安の長男に当たる人物で、沼田太郎右衛門高信からは、沼 田甚五高友、沼田太郎左衛門高実、甚五郎高安、四兵衛と続く。  沼田太郎左衛門高実は沼田太郎右衛門高信の長男甚吉高友の遺児で ある。甚吉高友が天正9年(1581年)に勝興寺焼失の際、討ち 死にしたため、勝興寺と盟友関係にあった光西寺(当時桜田村。慶 長2年加賀前田家の圧迫を避け五箇山栃原に身を隠したが、寛永2 年に西嶋村に再興した)に預けられたものとみられる。甚五高友は 兄甚吉高友の戦没後に高信の家を嗣いだものの、いずれは高信の嫡 流である太郎左衛門に家督を譲るつもりだったとみられる。「先祖 家系一巻記録」に太兵衛道友(甚五高友長男)が甚五高友の次男、 太郎左衛門高実が甚五高友の嫡子と記されるのは、このような背景 があったためと見られる。                   従って太郎左衛門高実が早世し、その子甚五郎高安が西嶋村に分家 するに際し、後見人である甚五高友より相当な援助があったものと 考えられる。寛文10年(1670)年の十村役左次兵衛の記録「 品々帳之写」では、太郎左衛門高実の子孫の草高を合わせると40 0石弱にも及ぶのに対し、長男の太兵衛道友の子孫の草高は100 石に満たず、西嶋村に分家した甚五郎高安には蓑輪村800俵を継 いだ甚五高友の力添えを見ることができる。           西島本家の分家(孫分家含む)は140軒強に及び、今日約300 軒ある越中沼田氏の約半分を占める。              ●西嶋村光西寺の再建と甚五郎高安             西嶋村と沼田氏を繋ぐ重要な役割を担っているのが光西寺であ る。「先祖家系一巻記録」では沼田太郎左衛門高実が一時身を 寄せたと記されるが、『鷹栖村史』(昭和37年中明宗平著) では「孫左衛門は沼田氏と謀り、西島村に迎えて光西寺を再建 し」と伝え、『ふる里の歴史其の一』(平成6年山本善則著) でも「寛永2年勝興寺の寺侍であった沼田高信の一族である、 沼田四兵衛という有縁の人を得て、光西寺は西島村に迎えられ 一寺を建てた」と記す。寛永2年(1625年)には慶長14 年生れの四兵衛は17才であることから、実際に光西寺を迎え たのはその父甚五郎高安であったと見られるが、その後四兵衛 という名が世襲されるに伴い、四兵衛が光西寺を再建したとの 伝承になったものであろう。なお、甚五郎が光西寺を再建した のは、父太郎左衛門高実が光西寺に世話になっていたためであ る。                          

光西寺 慶長2年(1597年)、当時桜田村(現富山県小矢部市平桜) にあった光西寺は加賀前田家の圧迫を避け、五箇山の栃原(現富山県東砺 波郡利賀村栃原)に身を隠した。寛永2年(1625年)、沼田太郎右衛 門高信の後裔である甚五郎高安により、西嶋村(現富山県小矢部市西島) に再建された。甚五郎は四兵衛の父である。光西寺は石山合戦に功あり、 また東本願寺分立にも功あったため、別院格に三狭間の像を下された。慶 安3年(1630年)に井波瑞泉寺(井波別院)が東派へ転向するまで、 城端善徳寺(城端別院)と共に東本願寺の触頭であった。      

●分家初代 沼田太郎左衛門高実              勝興寺家士沼田甚吉高友の嫡子。本来なら、沼田太郎右衛門高 信の嫡流であったが、天正9年(1581)年に木船城主石黒 左近に攻められた際、甚吉高友は討死。勝興寺も焼け落ちた。 このため遺児太郎左衛門高実は、勝興寺の盟友光西寺(当時桜 田村)に預けられた。早世。                ●第2代 甚五郎高安                   実父は沼田太郎左衛門高実の弟、杉谷内村庄左衛門。太郎左衛 門の養子となる。沼田甚五高友の後見により、西嶋村に分家。 また寛永2年(1625年)、五箇山に避難していた光西寺を 西嶋村に再建。                      さらに小矢部側の氾濫で荒地となっていた所を息子たちと共に 開墾、また西嶋村に隣接した未開の土地を開き、新西嶋村(現 富山県小矢部市新西)の基礎を築いた。           長男は四兵衛、次男清兵衛は神嶋村(現富山県砺波市神島)に 分家(屋号せいべえどん)、3男甚兵衛は新西嶋村(現富山県 小矢部市新西)に分家(屋号じんざいさ)、4男甚四郎も新西 嶋村に分家(屋号じんしろさ)、5男吉右衛門は下後亟村に分 家(屋号西島吉右衛門)、6男七右衛門は新西嶋村に分家(屋 号しちべさ)した。                    屋号しへーいどん。菩提寺は光西寺。            ●第3代 四兵衛                     慶長14年生。寛文10年草高91石8斗。西島村肝煎役(庄 屋)。                        

西ノ嶋村草高 寛文10年(1670年)時の西嶋村草高が記される。 村総草高は251石で、年貢は4割4歩。肝煎四兵衛は年62才と記され る。四兵衛の草高は91石8斗。当時は西之嶋村といい、元禄年間に入っ て西嶋村と呼ばれるようになった。                  (「品々帳之写」寛文10年埴生村左次兵衛記、富山県立図書館蔵)  

●第4代 四兵衛                     天和、貞享、元禄年間に村肝煎役。蓑輪村、経田村、上後丞村 等に懸作田あり。草高総計166石4斗。          ●第5代 四兵衛                     元禄、宝永、正徳、享保年間に村肝煎役。草高総計183石。 いつの時代かは不明であるが、四兵衛の草高は他村での懸作を 含め4百石に及んだという。                次男の藤右衛門は享保10年(1725年)に西嶋村に分家( 「組下58ケ村百姓持高帳付箋」元禄14年埴生村伝右衛門、 富山県立図書館蔵)。なお、藤右衛門の次男宗次郎は、鷹栖村 に分家した(屋号西之嶋屋)。また2代目藤右衛門の次男宗一 郎は水嶋村に分家(屋号いどやさ)。4代目藤右衛門は善徳寺 (城端別院)文書に名が見える。この子与十郎は蓮沼村に分家 (屋号よじゅろさ)。                   ●第10代 仕兵衛                    村肝煎役。嘉永元年(1848年)、寄嶋村彦十郎と共に、加 賀藩紫根植付方主付勢子役に任命される。妻、嫡子の後を追い 明治3年1月8日没。絶家。               

紫根之図 染料に使う紺色の原料である紫根を扱う役人に10代目仕兵衛が 任命された時の紫根の図。長さは2尺4寸〜5寸と記される。       (「新川郡紫根の作方一件」嘉永2年寄嶋村彦十郎等記、富山県立図書館 蔵、『富山県史』所収)                      

■神島沼田姓                         「先祖家系一巻記録」(天保14年神嶋村平右衛門記、神島本家蔵 )によれば、西嶋村甚五郎高安の次男清兵衛が、寛永年間中に神嶋 村(現富山県砺波市神島)に分家したとある。屋号せいべえどん。 屋号に「どん」のつく家は相当の草高を有したことを意味する。2 百軒におよぶ富山県内の越中沼田氏でも、清兵衛の兄四兵衛の「し へーいどん」とこの「せいべえどん」の2軒だけである。     4代目文蔵の子三右衛門は、新屋敷村(現富山県砺波市新屋敷)に 分家した(屋号神島屋)。                 

先祖家系一巻記録 神嶋村清兵衛の系譜について記された書。西嶋村 四兵衛の父甚五郎、祖父太郎左衛門高実について記された唯一の史料 でもある。                           (「先祖家系一巻記録」天保14年神嶋村平右衛門、神島本家蔵) 

■新屋敷沼田姓                        新屋敷(現富山県砺波市林小字新屋敷)沼田一族の本家の屋号を神 島屋といい、初代三右衛門は神嶋村本家より分家したことが知られ る。「田地割願」(元文3年新屋敷村方文書、砺波郷土資料館蔵) には、この初代三右衛門の名を見ることができる。      

田地割願 元文3年(1738年)における新屋敷村田地割願書。初代 三右衛門と次男で分家初代の七右衛門(しっちょんさ)の名が見える。 (「田地割願」元文3年新屋敷村方文書)             

■新西沼田姓                         新西(現富山県小矢部市新西)は、元来西嶋村出村と呼ばれており 西嶋村百姓の開拓によって生じた村である。開拓は主に西嶋村甚五 郎の弟と息子たちによってなされた。明暦2年(1656年)の村 草高320石の大半を沼田一族が占めるた。甚五郎の三男甚兵衛は 初代肝煎役(庄屋)を務め、草高126石1升。        

新西嶋村手上高 新西嶋村手上高が、付箋で記される。手上高は、加賀 藩改作奉行に村単位で草高の増加を申請する制度で、同村では明暦2年 (1656年)の10石に次いで、この元禄12年(1699年)の3 5石が2回目である。右より甚左衛門(じんざいさ)、甚右衛門(じん にょんさ)、三郎左衛門(むかいさ)、茂右衛門(もよんさ)、七右衛 門(しちべさ)、3人おいて甚四郎(じんしろさ)の名が見える。   (「草高免付百姓数之帳」元禄5年埴生村半兵衛写、付箋は元禄12年 時のもの、富山県立図書館蔵)                  

●じんざいさ                       初代甚兵衛は、西嶋村甚五郎の三男。元和3年(1617年) 生。新西嶋村に分家。寛文2年(1662年)より新西嶋村肝 煎(庄屋)。草高126石1升。              長男甚左衛門も村肝煎役を務め、他村での懸作を含め草高13 6石9斗。嫡流は後に北海道へ転出。現在札幌市在住。    次男甚右衛門は同村へ分家(屋号じんにょんさ)。2代目甚左 衛門の孫吉三郎は、正徳6年(1716年)に同村に分家(「 諸事抜書写」安政4年埴生村伝三郎、津沢町中島正文旧蔵、富 山県立図書館蔵)。屋号しんきちさ。しんきちさから分家した 沼田庄九郎(同村しょうべさ)の5男に『敵中横断三百里』に も登場する沼田與吉(津沢町に分家)がある。      

沼田與吉 日露戦争時に建川斥候隊に加わり、深く北満の地に潜入。 カレサレトンにて露軍の包囲を受け、脇腹をつかれて捕虜となる。こ の際に豊吉新三郎騎兵軍曹ら4名は危うく逃れて渡河し、露軍の追尾 を振り切り、3百里に及ぶ索敵行の末敵陣より帰還した。この偵察情 報は、国運を賭けた奉天の大会戦を大勝利に導き、日露戦争を終結さ せる決定的役割を果たした。捕虜となった沼田與吉は露都ペテルスブ ルグに送られたが、いかなる拷問にも屈せず、毅然とした態度に終始 した。戦後、講和が成立し、明治39年に帰国。天皇・皇后盃、さら に破格の金鵄勲章功6級を下賜される。復員後大工業を営み、つつま しやかな生活を送るも、その功を誇ることがなかった。このあたりは 後に映画化された山中峯太郎著『敵中横断三百里』に詳しい。  

また分家甚右衛門(屋号じんにょんさ)は寛文年間初頭に新西嶋村に 分家。元禄5年(1692年)村与合頭、正徳5年(1715年)2 代目甚左衛門没後に村肝煎役(庄屋)。4代目甚右衛門の子、勘右衛 門は同村に分家(屋号かんにょんさ)。3代目勘右衛門4男沼田仁蔵 も、同村に分家(屋号かんにょんさのあらい)。3代目当主沼田仁義 は昭和30年、石動町で沼田病院開設。県議5期。平成9年に富山県 議会議長に就任。                      

県議会議長沼田仁義 昭和30年、石動町で 沼田病院開設。同54年県議。平成9年、富 山県議会議長。             

●むかいさ                        初代三郎左衛門は杉谷内村庄左衛門の3男。兄甚五郎高安、弟 茂右衛門と共に新西嶋村の開拓を行う。同村に創家。明暦2年 家高81石5斗。家紋三ツ柏。2代目三郎左衛門は、正徳5年 頃まで村与合頭。江戸時代末期からは長次郎を襲名し、「ちょ うじろさ」とも呼ばれる。むかいさからの分家(孫分家を含む )は53軒。                      ●もよんさ                        初代茂右衛門は杉谷内村庄左衛門の4男。兄甚五郎高安、兄三 郎左衛門と共に新西嶋村の開拓を行う。同村に創家。明暦2年 家高41石1斗。家紋五三の桐。2代目茂右衛門は正徳5年( 1715年)より村与合頭。もよんさからの分家(孫分家を含 む)は20軒。                     ●じんしろさ                       初代甚四郎は西嶋村甚五郎の4男。開拓中の新西嶋村に入植。 寛文10年(1670年)草高40石7斗。家紋丸に三ツ柏。 2代目甚四郎は、正徳5年(1715年)より村与合頭(「覚 書」宝永元年頃埴生村伝左衛門記、津沢町中島正文旧蔵、富山 県立図書館蔵)。3代目と4代目甚四郎は村組合頭。6代目甚 四郎は文化5年(1808年)正月15日、金沢城二御丸焼失 にあたり金280目を供出(「津右衛門過去記」鷹栖村津右衛 門、砺波市史所収)。8代目甚四郎は明治新姓沼田。新西嶋村 十番屋敷。明治末期には、じんしろさの家高は400石に及ん だという。10代目沼田甚作は大正4年、第5代津沢町長に就 任。現在は大阪へ転出。じんしろさからの分家は、孫分家を含 め27軒を数える。                  

10代目沼田甚作 明治6年生。大正 4年、第5代津沢町長。古流川木派得 永理弘に師事する。       

●しちべさ                        初代七右衛門は、西嶋村甚五郎の6男。開拓中の新西嶋村に入 植。寛文10年(1670年)草高24石8斗。嫡流は昭和初 期に12代で廃絶。しちべさからの分家(孫分家を含む)は1 2軒。7代目七兵衛の弟庄蔵は同村に分家。4代目沼田良朔は 昭和22年に第17代津沢町長に就任。5代目耕作は、小矢部 市教育委員長、津沢農協長を歴任。           

昭和天皇北陸御巡幸 昭和天皇の初の北陸御巡幸が、昭和22年10月 に行われた。同月23日、津沢地区蓄牛品評会の天覧に際し、町役場か ら津沢駅前に至る道路の南側の田圃で2百余頭の牛を3列に列べた。沿 道に集まった人々は2万余人に達し、天皇は沼田良朔町長の奏上説明を 聞かれ、激励慰問の御言葉を賜った。              

●がけのたか                       初代源右衛門。父杉谷内村和兵衛。新西嶋村に分家。文政9年 (1826年)西嶋村小泉家文書に名が見える。家紋丸に蔦。 2代目源五郎は明治新姓沼田。新西嶋村20番屋敷。     ■下後亟沼田姓                         西島(現富山県小矢部市西島)伝承によると、下後亟(現富山県小 矢部市下後亟)の沼田一族は西嶋四兵衛の初期の分家であって、神 島村(現富山県砺波市神島)清兵衛と兄弟あらい(分家)であると いう。また分家に際し、70石から80石を与えられたともいう。 初代は吉右衛門で、長兄は西嶋村四兵衛、次兄は神島村清兵衛であ る。貞享2年正月12日没。家紋五三の桐。           9代目吉右衛門の明治5年、称号を沼田とする。下後亟村17番屋 敷。同22年、行政区画変更に伴い水嶋村大字下後亟村。10代目 與三、11代目増永はともに水島村議。現在は滋賀県八日市市に転 出。                             ■津沢沼田姓                         津沢(現富山県小矢部市津沢)は古くから小矢部川の舟着場として 栄えていたが、万治3年に阿曽三右衛門が加賀藩に町立てを願い出 たのが町の起こりであり、当初は津沢町村と称した。沼田一族は町 立てを前後して入町し、僅か十年後の寛文十年(1670年)の記 録には、一族の佐次兵衛や仁兵衛、長兵衛らの名が見える。  

津沢絵図 享保8年(1723年)正月作成の津沢町の絵図。江戸時代中期 の津沢の町並みが記される。絵図中の「肝煎左次兵衛」は沼田一族。他に一 族では仁兵衛(にへさ)、長兵衛(室屋)、権右衛門(ごんにょんさ)の名 が見える。なお、原絵図は津沢の郷土史家中島正文氏(著書に『鷹栖村史』 などがある。収拾した膨大な郷土史料は、現在「中島文庫」として富山県立 図書館に保管される)が所蔵したが、氏の没後行方不明となった。これは氏 の存命中に郷土史家山本善則氏(著書『ふる里の歴史』など。津沢図書館長 )が写真に撮っておいたものである。                  (享保8年正月津沢町村方文書、津沢町中島正文氏旧蔵)                           

●左次兵衛                        父新西嶋村茂右衛門(初代)か。津沢町村に分家。寛文4年( 1664年)、清水村懸作高23石。家紋五三の桐。     3代目左次兵衛は津沢町肝煎(享保8年)。屋敷は現北陸銀行 津沢視点のあるところにあった。9代目左次兵衛で明治新姓沼 田。明治5年、いくり舟御役銀3百文。津沢波止場で運送業を 営む。10代目甚三郎の次男吉郎は高岡市に分家、3男外次郎 は庄川町に分家。                     ●にへさ                         初代仁兵衛。父新西嶋村三郎左衛門(初代)。弟長兵衛と一緒 に、津沢町村に分家。寛文10年(1670年)の史料に名が 見える。享保7年没。家紋三ツ柏。2代目仁兵衛は「津沢町絵 図」(享保8年)に名が見える。分家には與右衛門、孫四郎他 がある。                         ●室屋ちょうべい                     初代長兵衛。父新西嶋村三郎左衛門(初代)。兄甚兵衛ととも に津沢町村に分家。寛文10年(1670年)の史料に名が見 える。享保10年没。三ツ柏紋。8代目吉郎右衛門は安政4年 古手商売。9代目帳兵衛は、明治3年酒商売。明治新姓沼田。 分家に宗七(そうしちさ)、和右衛門(わよんさ。2代目沼田 和右衛門は嘉永6年、津沢町組合頭。明治7年、津沢町村と清 沢新村合二ケ村戸長)、太右衛門(たよんさ。6代目沼田益太 郎は沼田製粉社長、小矢部市議会議長)、宅右衛門(金沢へ) 清兵衛(せいべさ)などがある。室屋ちょうべいの分家は孫分 家を含めると32軒に及ぶ。                ●ごんにょんさ                       初代権右衛門は西嶋村四兵衛(5代目)の3男。津沢町村に分 家。御門跡様も宿泊された由緒ある家柄。享保8年、津沢町絵 図に名前あり。明和6年没。家紋立花紋。7代目沼田権三郎の 妻は新西嶋村沼田甚四郎(8代目)長女。9代目沼田権次郎は 昭和22年津沢町議会議長。                ●もすけさ                        初代津右衛門。父新西嶋村茂右衛門(7代目)。嘉永元年6月 (1848年)よりいくり舟商売(伏木から小矢部川経由で津 沢までの舟による運送)の記録(「散小物成銀退出来上納根帳 」慶応4年津沢町村方文書、津沢町中島正文旧蔵、小矢部市市 所収)。家紋五三の桐。もすけさからの分家(孫分家を含める )は7軒。