■水島沼田姓                         水嶋村(現富山県小矢部市水島)の沼田一族で、最も初期の記録に 名前が登場するのは、寛文10年(1670年)の三右衛門(よこ んてさ)と甚右衛門(しょごじま)である(参考史料)。また新西 嶋村甚左衛門(2代目)は、「水嶋村碁盤割百五十石の当り歩帳」 (元禄元年5月新西嶋村甚左衛門、小矢部市埴生太田正治蔵)によ れば水嶋村の碁盤割に関わっており、また元禄9年(1693年) には水嶋村に50石の懸作高を有した(参考史料)。江戸時代初期 には新西嶋村甚左衛門が深く水嶋村と関わっており、同族であった 新西嶋村沼田姓より水嶋村に数多く分家している。水島沼田姓は、 大きく分けて9つの系統がある。                ●せいろくさ                       初代清六郎。父新西嶋村三郎左衛門(初代)。水嶋村に分家。 貞享4年没。家紋三ツ柏。8代目清五郎は文化14年生。明治 新姓沼田。水嶋村136番屋敷。              ●よこんてさ                      初代三右衛門。父杉谷内村三郎右衛門(3代目)か。水嶋村勝 満時住職の力添えにより水嶋村に創家。寛文10年(1670 年)の記録に名が見える(参考史料)。家紋三ツ柏。屋号よこ んてさは、川の横手に屋敷があったためか。         8代目沼田三四郎は天保4年生。幕末から明治初期にかけて、 村組合頭。同村63番屋敷。明治16年、水嶋村戸長に就任。 同22年、町村制施行により水嶋村、上後亟村等砺波軍7ケ村 と経田村の一部が合併し、新たに砺波郡水嶋村となる。初代水 嶋村収入役。9代目沼田三四郎も、水嶋村収入役、水嶋村議。 ●しょごじま                       初代甚右衛門。父新西嶋村甚四郎(初代)か。水嶋村に分家。 寛文10年(1670年)草高45石(参考史料)。屋号しょ ごじまは、旧水嶋村の小字名に由来するという。6代目甚右衛 門は、天保15年(1844年)6月と安政4年9月に村肝煎 (庄屋)の記録がある。7代目甚右衛門は天保元年生。元治元 年村肝煎。明治5年、姓を沼田、名を甚作とする。水嶋村12 2番屋敷。明治7年、砺波郡第22大区5小区(地崎村等22 ケ村)戸長に就任。同12年、水嶋村戸長役場戸長。     4代目甚右衛門の次男次助は同村に分家(屋号じすけさ)。文 化元年(1804年)より同10年まで水嶋四ケ用水(開発村 等4ケ村)請負人。2代目次助は寛政10年生。天保15年に は水嶋村組合頭。明治新姓沼田。同村123番屋敷。3代目沼 田次助は天保5年生。幕末より明治初期まで同村組合頭。4代 目沼田次助は明治7年生。同37年、水嶋村議。同14年、西 砺波郡会議員。大正7年、水嶋村助役。           ●さくべいさ                       初代作兵衛。父杉谷内村三郎左衛門(4代目)か。水嶋村勝満 時住職の力添えにより水嶋村に創家。享保10年没。家紋蔦の 葉。7代目作兵衛は文政7年生。明治新姓沼田。水嶋村67番 屋敷。                          ●しょうすけさ                      初代庄助。父は新西嶋村三郎左衛門(2代目)か。水嶋村に分 家。享保17年没。家紋三ツ柏。7代目庄助は文政9年生。明 治新姓沼田。水嶋村159番屋敷。             ●ひこざいもんさ                    

沼田白鶴筆塚 沼田彦左衛門白鶴は13才の時金沢に出て、 高田紅清につき漢籍と書道を学び奥義を究める。幕末から明 治初期の間、水嶋村で手習塾を開き、近隣の村々の多くの子 弟を教育した。同13年、子弟により筆塚を建立。   

初代彦左衛門。父は新西嶋村七右衛門(6代目)。水嶋村に分 家。家紋三ツ柏。4代目沼田彦左衛門白鶴は、弘化元年12月 生。幕末から明治初期の間、水嶋村で手習塾を開き、村はもち ろん近隣の多くの子弟を教育した。5代目沼田彦左衛門は、明 治6年4月生。明治44年、第2代水嶋村長に就任。   

水嶋村長沼田彦左衛門 沼田彦左衛門白鶴長男。古流川木派得永 理弘門弟。明治37年より水嶋村議2期。同44年より大正4年 まで第2代水嶋村長に就任。               

●さらしや                         初代伊三次郎。父新西嶋村吉三郎(3代目)、水嶋村に分家。 文化14年没。家紋三ツ柏。4代目宗十郎は文政2年生。明治 新姓沼田。砺波郡水嶋村64番屋敷。            ●勘助                          初代勘助。父新西嶋村吉三郎(3代目)、水嶋村に分家。   幼名勘次郎。4代目勘助は文政11年生。明治新姓沼田。水嶋 村66番屋敷。5代目沼田善蔵で廃絶。           ●すみどさ                        初代宗右衛門。父は新西島村甚四郎(4代目)水嶋村に分家。 天保8年没。家紋三ツ柏。4代目宗右衛門は天保14年生。明 治5年、姓を沼田とする。水嶋村119番屋敷。       ■戸久沼田姓                         戸久(現富山県小矢部市戸久)の沼田一族は、越中沼田氏祖沼田太 郎右衛門高信の嫡男、安養寺城勝興寺家士沼田甚吉高友をその祖と する。天正9年(1576年)4月、木舟城主石黒左近の勝興寺焼 討の際、甚吉高友は討死し、後家となった妻かなと子庄左衛門は暫 く高木場道場浄道山に住んだという。その後高木場道場は兵火に遭 い焼失、庄左衛門は母かなと共に杉谷内村に避難し以後定住した。 これが戸久沼田姓の始まりである。               ●沼田甚吉高友と甚五高友                 高祖沼田太郎右衛門高信の嫡流は、長男甚吉高友であったが、 天正9年に討死したため、次男の甚五高友に承け継がれた。従 って蓑輪総本家は、甚五高友の流れをくむ。         ●むかいの女あらい                    戸久本家の古い屋号は、「むかいの女あらい」という。「むか い」というのは杉谷内村にある現福江本家(屋号むかいさ。杉 谷内村随一の名家であって、江戸時代に入り、市右衛門が出て 初代村肝煎を務めた)の屋号である。杉谷内村の「むかいさ」 より甚吉高友に娘が入嫁したものの、甚吉高友が戦死したため やむなく実家むかいさの力を借りて分家(あらい)した。この ように「むかいの女あらい」という屋号には、初代甚吉高友の 妻(かなと云う)の悲しい生涯が秘められている。     

●沼田太郎左衛門高実と沼田庄左衛門高盛          甚吉高友には2人の男児があった。天正9年、父を失った太郎 左衛門は、勝興寺の盟友であった桜田村の光西寺に預けられ、 まだ幼かった母かなと共に、高木場道場浄道山(現富山県小矢 部市戸久神社の近く)に住む。同13年(1585年)8月、 豊臣秀吉佐々成政討伐の際大軍で押寄せ、浄道寺道場は兵火に 遭い焼失。庄左衛門は太郎右衛門高信の守護神、金比羅大神を 守り、杉谷内村に避難。母かなと共に定住する。浅地尻高地内 山林1町3反を開拓。                  

戸久神社 越中沼田氏祖沼田太郎右衛門高信の守護神は、金比羅 大神であった。天正13年、豊臣秀吉の軍勢は佐々成政討伐の際、 高木場道場に押寄せ、道場は焼失、2代目沼田庄左衛門高盛は金 比羅大神を護り、母かなと共に実家のある杉谷内村に避難したと いう。このためこの社地跡は、今でも空宮(からみや)と呼ばれ る。明治40年戸久新村(源富山県小矢部市戸久)に移住の際、 金比羅代診も移転し、小字御坊山に新たに社地を設け祀った。大 正11年、金比羅大神は新築の戸久神社に合祀された。    

●戸久本家こおもりだん                  沼田太郎右衛門高信の長男甚吉高友を祖とし、次男庄左衛門高 盛の母かなが、実家である杉谷内村むかいさの力により同村に 分家。屋号は古くは「むかいの女あらい」、後に「こおもりだ ん」。これは高盛の名に由来する屋号である。        なお、『越中志微』(昭和26年森田柿園著、昭和48年石川 県図書館協会復刻版編纂)によれば、天正9年の勝興寺の討死 した家人に「下間源五郎、城戸刑部、本渡主計、沼田庄左衛門」 と記し、甚吉高友の俗名が庄左衛門であったことが知られる。 高盛の俗名庄左衛門は父より受け継いだものである。     庄左衛門高盛の長男は3代目となる三郎右衛門である。弟には 叔父沼田太郎左衛門高実の養子となり西嶋村に分家した甚五郎 高安(屋号しへーいどん)、新西嶋村に分家した三郎左衛門( 屋号むかいさ)、同じく新西嶋村に分家した茂右衛門(屋号も よんさ)がある。なお、甚五郎高安の西嶋村への分家は、蓑輪 総本家の沼田甚五高友の力添えによるものであり、また三郎左 衛門の新西嶋村への分家には屋号からみて、杉谷内村むかいさ の援助があったと思われる。               

むかいの女あらい跡地 戸久沼田姓の先祖かなは、豊臣秀吉の越中征伐の 際、沼田甚吉高友の遺児庄左衛門高盛を連れ、杉谷内村の山奥に避難した。 庄左衛門高盛は背中に沼田一族の守護神金比羅大神をかついでいた。以後、 一族は明治40年に戸久新村に移住するまで、320年間をこの地で過ご すことになる。平成13年6月、沼田與吉氏は旧住居跡を保存し、石碑を 建てた。当時、炊事場に使っていたと見られる岩清水が、今もこんこんと 湧き出ている。                                杉谷内 むかしをしのぶ岩清水                        今も変らぬ命水かな   沼田與吉 
4代目三郎右衛門は、寛文10年(1670年)には草高57 石(史料 )。その弟の三右衛門は水嶋村に分家(屋号よこん てさ)。                         5代目三郎右衛門は、元禄年鑑に村与合頭の記録がある(「草 高免付百姓数之御帳」元禄5年埴生村半兵衛、富山県立図書館 蔵)。元禄14年、草高63石。正徳3年12月没。弟の作兵 衛は水嶋村に分家(屋号さくべいさ)。          

組下58ケ村百姓持高帳付箋 5代目三郎右衛門の元禄14年 (1701年)時の草高記載箇所の上に写真の付箋が貼られる。 (元禄14年埴生村伝右衛門、富山県立図書館蔵)       [写真右側]                         5代目三郎右衛門が正徳3年(1713年)12月に病死、長男 の故太郎兵衛の倅彦兵衛(三郎右衛門の内孫)に跡目相続させる 事となった。後見人は三郎右衛門三男の六兵衛。        [写真左側]                         7代目彦兵衛は正徳5年に11才で早世。跡継ぎがないため、後 見人である伯父六兵衛を名跡とし、後々は六兵衛倅三右衛門と故 彦兵衛妹とを添わせて家督相続させる旨の合意がなされた。 

6代目太郎兵衛は正徳3年以前に早世、正徳4年(1714年 )正月に、嫡男の彦兵衛が家督相続をした(「組下58ケ村百 姓持高帳付箋」元禄14年埴生村伝右衛門記、富山県立図書館 蔵)。                          8代目高右衛門(幼名三右衛門)は、彦兵衛の養子。妻は彦兵 衛妹ちよ、実父は彦兵衛伯父杉谷内村六兵衛(「組下58ケ村 百姓持高帳付箋」元禄14年埴生村伝右衛門記、富山県立図書 館蔵)。                         9代目仁兵衛門は同村組合頭か。天明5年(1785年)4月 23日、福光代官所に出頭、帰宅せず。飢饉年が続き、笹の根、 草の根まで食したという。死人まで出た責を負うたか。仁兵衛 門の弟に、勘兵衛(蓮沼村に分家 。屋号かんべさ)、与三兵 (蓮沼村に分家。屋号よそべさ)、孫市(蓮沼村に分家。屋号 まごいちさ)がある。                   10代目和兵衛は寛政2年(1790年)帰らぬ先代の身を偲 ぶ地蔵尊を作り、供養する。               

地蔵尊 9代目仁兵衛門が村の要職にあった天明5年(178 5年)、福光代官所に出頭するも帰宅せず。飢饉年(天明の飢 饉)が続き、笹の根、草の根まで食すと伝えられる。死人まで 出た責に問われたか。後の寛政2年(1790年)、和兵衛は 帰らぬ先代の身を偲ぶ地蔵尊を作り、供養した。      

■蓮沼沼田姓                         蓮沼(現富山県小矢部市蓮沼)の沼田一族で最も古いのはくらばん さで、元文4年(1739年)の法名がある。初代は仁左衛門と伝 えられる。蓮沼領主加賀谷の倉番を仰せつかったので、この屋号が ある。                            蓮沼沼田姓には7つの系統があるが、そのほとんどは杉谷内村本家 からの分家である。                      ●くらばんさ                       初代仁左衛門。父杉谷内村三郎右衛門(5代目)か。蓮沼村に 分家。蓮沼領主加賀谷の倉番を務る。元文4年12月朔日没。 分家数は孫分家も含め、43を数える。現在は9代目。    2代目仁左衛門の次弟甚太郎は同村に分家。屋号じんたろさ。 明治42年、7代目沼田久助の時、北海道へ入移(現在は北海 道勇払郡厚真町)。                    3代目仁左衛門の弟、善四郎も同村に分家。屋号じよんさ。  ●かんべさ                        初代寛兵衛。父杉谷内村高右衛門(8代目)。蓮沼村に分家。 2代目寛兵衛の弟権兵衛も同村に分家。屋号ごんべいさ。   ●よそべさ                        初代与三平。父杉谷内村高右衛門(8代目)。蓮沼村に分家。 3代目与三平の弟与之助も同村に分家            ●まごいちさ                       初代孫市。父杉谷内村高右衛門(8代目)。         ●しょうべいさ                      初代庄兵衛。父杉谷内村和平衛か(10代目)。蓮沼村に分家。 ●よじゅろさ                        初代与十郎。父西嶋村藤右衛門(4代目)か。蓮沼村に分家。 昭和4年に4代目沼田重信は金沢氏に転住。