越中沼田氏高祖 沼田太郎右衛門高信

沼田太郎右衛門高信碑 亨保18年(1733年)に加賀藩家老津田玄蕃の家臣沼田将曹 秀友により、砺波郡蓑輪村(現小矢部市蓑輪)に建立された。富山県最古の石碑である。 市指定文化財。写真は、大正元年(1912年)11月にこの石碑の保存堂が再建され た時のもの。右より沼田文蔵(総本家当主)、沼田孫三郎(総本家、保存堂再建者)、 沢辺清治(津沢町長)、沼田甚作(次期津沢町長)。左上の円内は、石碑の建立者沼田 将曹秀友の直系に当たる沼田悟郎(当時千葉県)。氏は保存堂の共同再建者でもあった が、11月の完成を待たず逝去した。                      

■沼田太郎右衛門高信碑(富山県小矢部市蓑輪)         小矢部市指定文化財。沼田氏の系図および高祖沼田太郎右衛門高信 の事績が刻まれる。加賀藩山廻役であった宮永正運の『越の下草』 (天明6年;1786年)にも碑誌の全文が掲載される。富山県最 古の石碑という(京田良志「沼田太郎右衛門碑について」ふるさと の石仏第3集、小矢部市教育委員会、1982年)。       本碑は沼田高信より6代目に当たる、加賀藩家老津田玄蕃家臣沼田 将曹秀友の建立によるもので、亨保18年(1733年)10月1 6日、越中蓑輪村(現小矢部市蓑輪)猿尾崎に建立された。碑誌作 者は中西一進祐貞、筆者は堀田伝左衛門尉音通、石工は竹井屋武兵 衛であった。本碑は加賀太田村より倶利伽羅峠を越えて運ばれた。 碑誌は石碑の四方に刻まれ、一字は一寸四方の大きさ、文字数総計 は731文字である。                    

沼田太郎右衛門高信碑誌 碑誌(写真左)が建立された時の写しが現在も沼田総本家(小 矢部市蓑輪)に現存する。写真右はこの写しである。石碑の文字は260年余の歳月を経 た今日でも、かろうじて読みとることができる。                  

■沼田太郎右衛門高信碑誌                   高信は上野国沼田の庄の人にして、鎮守府将軍藤原秀郷の胤なり。 其の先家通始めて…其の後嫡流相承け、十有五世にして高信に至り 野を去って越中に之き、勝興寺に寓す。寺主顕幸、高信をして安養 寺城を守らしむ。越後の州上杉輝虎は顕幸の世讐にして、且つ壌地 相接す。是の故に兵を境上に操るもの年あり。天正4年2月13日 輝虎兵を将て忽ち城下に至る。高信衆を率いて力戦し、其の堯将長 尾新五為秀を獲たり。此に於て輝虎狼狽して去る。顕幸深く其の功 を嘉し遂に食ましむるに蓑輪の邑、8百俵の地を以てす。(後略) (訳は宮永正運『越の下草』天明6年著、昭和55年富山県郷土史 会復刊に拠った)                       ■雲龍山勝興寺の創建                  

勝興寺本堂(重要文化財) 天正12年神保氏張の寄進により、伏木の地に再興を 遂げた勝興寺は、本願寺派の連枝寺として絶大な権力を誇った。加賀藩主前田家も 3代利常の養女を嫁がせ、さらに6代吉徳の8男も勝興寺13世住職として入寺す る他、加賀藩の本願寺系寺院では唯一寺領が与えられていた。         

勝興寺は文明3年(1471)、蓮如上人の発願による土山御坊( 蟹谷庄)の創建に始まる。永世14年(1517年)、佐渡にあった 順徳院が親鸞に帰依して創建されたとの由緒を持つ勝興寺の寺号を相 続し、蓮如直系の寺院として、越中では井波瑞泉寺と双璧をなした。 文明13年(1481年)、福光城主は加賀国守護富樫家の求めに応 じ、瑞泉寺らの一向宗勢力と田屋河原に戦ったが、勝興寺(当時土山 御坊)の援護を受けた一向宗勢力の前に敗退した。この結果砺波郡一 帯(十万石)は山田川を境として、西は勝興寺(当時土山御坊)領、 東は瑞泉寺領となった。この7年後には加賀富樫家も滅亡し、越中砺 波郡(現富山県砺波市、東砺波郡、西砺波郡福光町、小矢部市)およ び加賀(現石川県)はおよそ1世紀にわたり、本願寺直属の領国とな った。                             ■戦国時代の安養寺城勝興寺                   勝興寺は城郭を構えて町家を合わせて3千軒を有し、安養寺城とも呼 ばれた。当時、大名並の勢力を誇ったとされる。          永禄3年(1560年)、越後の上杉謙信は越中に入り、富山城、増 山城を攻める。以後十回余も繰り返される越中侵攻の幕あけである。 同年10月、甲斐の武田信玄は井波瑞泉寺に檄して越後を衝くことを 求めた。これより武田信玄と越中門徒は連盟して越後に当たる。永禄 8年(1565年)武田信玄は勝興寺に書状を送り、一致して上杉氏 に対抗するよう申し出た。                    ■武田信玄上洛作戦と安養寺城勝興寺               甲斐の武田信玄にとって上洛の背後を脅かす最大の敵は、言うまでも なく上杉謙信であった。そこで謙信を越後に釘付けにするために、越 中・加賀の真宗勢力に手を回した。元亀3年(1572年)5月24 日、金沢小山御坊による加賀真宗勢が破竹の勢いで北陸道を東進、勝 興寺顕栄、瑞泉寺顕秀ら獲中の真宗門徒と合流した。その数4万。椎 名康胤、神保長職もこれに策応する。               真宗門徒は上杉謙信の最前線基地日宮城(現富山県射水郡小杉町)を 破り、神通川西方の五福山(現呉羽山)でも上杉勢を一蹴、さらに神 通川の渡場の戦でも圧勝した(6月15日)。この時謙信は関東に遠 征中であったが、急遽帰国の途につく。この間に真宗勢は富山城も攻 略来援し新庄城(現富山市新庄)に陣を敷いた謙信と9月初め尻垂坂 で激突した。この合戦に勝利した上杉勢は、10月に入り、富山城も 奪還する。                           謙信が越中に釘付けになっているのを見てとった武田信玄は”時至れ り”と判断、10月3日大兵を率いて甲府を進発した。24日に織田 信長の同盟者である徳川家康方の二俣城を攻撃、12月22日に家康 ・信長連合軍を三方ケ原に打ち破った。信玄は今にも上洛せんばかり の書状を発し、将軍足利義昭は欣喜雀踊した。信玄の上洛に恐れを抱 いた織田信長は、二俣城陥落の後の11月7日、上杉謙信と急接近し 同盟を結んだ。                         この同盟は真宗勢にとって大きな驚異となった。西進する謙信と北進 する信長に挟撃される恐れが出てくる。上洛を目前にした信玄にとっ ても、大きな圧力である。そこで信玄は浅井長政らと謀り真宗勢力の 再蜂起を画策。同4年(1573年)春、安養寺城と椎名氏が再度富 山城を奪回した。しかしこれも兵を返した謙信に再度奪還され、また 信玄も上洛を目前にしながら陣没してしまう。4月のことであった。 7月に入り足利義昭が挙兵するも失敗、ここに室町幕府は滅亡する。 8月には朝倉・浅井両氏が信長の猛攻で滅亡し、織田信長包囲網はつ いに崩れ去るのである。                    

 富山城        上杉謙信       安養寺城勝興寺跡 戦国時代末期の永禄3年(1560年)、神保長職は長尾景虎(上杉謙信)の攻略 を受け、富山城は上杉氏の支配下に入った。元亀3年(1572年)、武田信玄や 椎名康胤、神保長職と結んだ瑞泉寺、勝興寺と加賀小山御坊ら真宗勢力は、総勢4 万で東進し、富山城を奪回した。上杉謙信は関東に遠征中であったが、急遽帰国し 10月には富山城を奪還する。武田信玄が上洛のため甲府を進発したのはまさにこ の時であった。翌年初春、勝興寺と椎名氏は再度富山城を奪回するも、兵を返した 謙信に再度奪還される。謙信が没した2年後に織田信長の武将佐々成正が入城する まで、富山城を巡る激しい争奪戦は20年にわたって続いた。         

■上杉謙信西上作戦と安養寺城勝興寺               信玄亡きあと上杉謙信にも上洛のチャンスが巡ってきたが、やはり最 大の足かせは加賀・越中砺波郡の真宗勢力であった。        天正4年(1576年)3月、謙信は3年ぶりに越中に侵攻、神保氏 張が拠る守山城を攻撃した。室町幕府の再興を謀る足利義昭は、毛利 氏に上洛の軍備を整える様依頼する一方、謙信と武田勝頼にも協力を 申し入れ、本願寺顕如にも同盟を要請した。そして4月本願寺と織田 勢との戦端が開かれ、5年間に及ぶ石山合戦が再開。本願寺総帥顕如 はここで謙信に和解をもちかける。長年にわたり真宗勢に悩まされ、 信長の北進を危惧する謙信に異論はない。かくして謙信と信長の同盟 は破棄され5月18日に勝興寺ら真宗勢との歴史的和睦が成立した。 ここに本願寺・真宗門徒と足利義昭、毛利輝元、上杉謙信という新た な信長包囲網が生まれたのである。                翌天正5年(1577年)3月、謙信に足利義昭からの上洛を促す密 書が届く。閏7月謙信は越中を抜け、能登に進撃。9月15日に七尾 城を降した上杉勢は総勢3万7千で南進を開始、七尾城支援のため北 進する信長軍3万と23日夜半手取川で激突した。上杉勢の圧勝であ った。12月、春日山城に凱旋した謙信は翌年の上洛を睨んだ将士名 簿を作成、かつての仇敵であった勝興寺と瑞泉寺も名を連ねる。しか し上洛を目前に控えた翌天正6年3月、不帰の客となる。      ■沼田太郎右衛門高信と上野国                  沼田太郎右衛門高信は上野国(現群馬県)より越中へ来たとあるが、 詳細な時期は不明である。また当時上野国には沼田城(現群馬県沼田 市)があったが、城主沼田顕泰(桓武平氏三浦氏流とする説が有力。 秀郷流波多野氏から出た高信とは系図を異にする)と高信との関係に ついては、史料に乏しく詳細は不明である。なおこの沼田顕泰を後期 沼田氏、高信の氏祖である沼田七郎家通の甥沼田太郎を前期沼田氏( 前期、後期という用語は上野国に対して用いる)という(群馬県『沼 田町史』1952年)。                     沼田太郎が拠った上野国利根庄は、嫡子沼田太郎(大友実秀)が早世 し、また父大友四郎経家には男子がいなかったため、娘利根局の子、 能直(祖父大友経家の後を嗣ぐ。父は斎院次官中親能原であるが、源 頼朝の子であるとの説もある)に譲られた。前期沼田氏の後継者たる べき大友能直は、九州に下って有力大名として発展したが、南北朝時 代に至り、8代目の大友氏時が、利根の川場に引退したことは、実に そのゆかりの地である祖先の故地に帰ったものとみることができる。 ■沼田太郎右衛門高信と安養寺城勝興寺              「雲龍山勝興寺系譜」によれば、天正4年(1576年)に上杉謙信 (初名輝虎)は越中へ出陣し安養寺城を攻めるが、家臣沼田太郎右衛 門高信は上杉家の足軽大将長尾新吾為秀を討ち取った。その後扱いの 義があって、上杉家と和談に及んだとある。沼田太郎右衛門高信碑誌 にある高信と上杉謙信(輝虎)との戦いは、この「雲龍山勝興寺系譜 」から引用したものであろう。なお、上杉家の史料では越中出兵は天 正4年3月とあり、勝興寺文書の2月と食い違いを見せる。     また高信は上杉勢との同役で、丹治叔信(興法寺村葭谷城主)と刀を 合せ、葭谷にて長尾新吾為秀を討ち取った。この時の障檄の跡がその 後も残っていたという(宮永正運『越の下草』天明6年)。     ■越中沼田氏                          勝興寺の侍大将であった沼田太郎右衛門高信は、天正4年2月の上杉 謙信との戦役の功績により、寺主顕幸より蓑輪邑(現小矢部市蓑輪) に8百俵の領地を賜ったという。                

沼田太郎右衛門高信領地地図 本地図には、石碑のある猿尾崎から北二丁の地に東 西20軒、南北50軒の区画を描き、「沼田高信掻上之跡男高友代迄モ此所ニ居ス 」とある。さらに区画の北辺に「此筋ノ通リ高サ一丈許リノ土居」「三間計ノ堀在 之タル由」との注記がある。昭和33年にこの辺りから出た住居跡を富山県教育委 員会社会教育課の指導を得て砺中町(現小矢部市津沢)文化財保護委員会が調査し たが、寺院址ではないかということで終わってしまった。            しかし高信の居館については高信碑誌に記録があるのみならず、天明6年(178 6年)の「越の下草」(加賀藩山廻役宮永正運著)でもこれを記録しており、是非 とも再調査を期待したい。高信碑誌を調査し報告文を書いた京田氏は、「土塁と濠 とがめぐらされており、例え沼田高信・高友の居館跡とは結びつかないにしても、 中世武家屋敷跡の感がある」(京田良志著「沼田太郎右衛門碑について」、ふるさ との石仏第3集、小矢部市教育委員会、1982年)と述べ、本領地地図の記述と の不思議な一致に注目している。また津沢の郷土史家で小矢部市文化財保護審査委 員のY氏は当時この発掘調査に携わったが、当時を振り返り「住居跡から推定され る家の構えは、まさに武家屋敷そのものであった」と述べる。もちろん氏はこの住 居跡を高信の居館跡と今でも信じて疑わない。(小矢部市沼田総本家所蔵)   

沼田高信は蓑輪邑に居館を構えたが、そこに従士12騎も居住した。 『沼田太郎右衛門』(亨保18年頃沼田将曹秀友著、沼田総本家蔵) によれば、蓑輪、興法寺、安居寺三ケ村の農民を督励し、里余を隔て る石黒村泉より三ケ年の日月を費やし、明神川の水を引いて開墾に使 したのは高信だという。現蓑輪の三ケ村用水である。        高信は蓑輪に根を下ろし、越中沼田氏の祖となった。なお氏祖沼田七 郎家通から沼田高信までは19代(沼田太郎右衛門高信碑誌には十有 五世とあるが)、今日の沼田総本家当主までは34代である。沼田総 本家は、現在も蓑輪の地にある。