富山城 上杉謙信 安養寺城勝興寺跡
戦国時代末期の永禄3年(1560年)、神保長職は長尾景虎(上杉謙信)の攻略
を受け、富山城は上杉氏の支配下に入った。元亀3年(1572年)、武田信玄や
椎名康胤、神保長職と結んだ瑞泉寺、勝興寺と加賀小山御坊ら真宗勢力は、総勢4
万で東進し、富山城を奪回した。上杉謙信は関東に遠征中であったが、急遽帰国し
10月には富山城を奪還する。武田信玄が上洛のため甲府を進発したのはまさにこ
の時であった。翌年初春、勝興寺と椎名氏は再度富山城を奪回するも、兵を返した
謙信に再度奪還される。謙信が没した2年後に織田信長の武将佐々成正が入城する
まで、富山城を巡る激しい争奪戦は20年にわたって続いた。
■上杉謙信西上作戦と安養寺城勝興寺
信玄亡きあと上杉謙信にも上洛のチャンスが巡ってきたが、やはり最
大の足かせは加賀・越中砺波郡の真宗勢力であった。
天正4年(1576年)3月、謙信は3年ぶりに越中に侵攻、神保氏
張が拠る守山城を攻撃した。室町幕府の再興を謀る足利義昭は、毛利
氏に上洛の軍備を整える様依頼する一方、謙信と武田勝頼にも協力を
申し入れ、本願寺顕如にも同盟を要請した。そして4月本願寺と織田
勢との戦端が開かれ、5年間に及ぶ石山合戦が再開。本願寺総帥顕如
はここで謙信に和解をもちかける。長年にわたり真宗勢に悩まされ、
信長の北進を危惧する謙信に異論はない。かくして謙信と信長の同盟
は破棄され5月18日に勝興寺ら真宗勢との歴史的和睦が成立した。
ここに本願寺・真宗門徒と足利義昭、毛利輝元、上杉謙信という新た
な信長包囲網が生まれたのである。
翌天正5年(1577年)3月、謙信に足利義昭からの上洛を促す密
書が届く。閏7月謙信は越中を抜け、能登に進撃。9月15日に七尾
城を降した上杉勢は総勢3万7千で南進を開始、七尾城支援のため北
進する信長軍3万と23日夜半手取川で激突した。上杉勢の圧勝であ
った。12月、春日山城に凱旋した謙信は翌年の上洛を睨んだ将士名
簿を作成、かつての仇敵であった勝興寺と瑞泉寺も名を連ねる。しか
し上洛を目前に控えた翌天正6年3月、不帰の客となる。
■沼田太郎右衛門高信と上野国
沼田太郎右衛門高信は上野国(現群馬県)より越中へ来たとあるが、
詳細な時期は不明である。また当時上野国には沼田城(現群馬県沼田
市)があったが、城主沼田顕泰(桓武平氏三浦氏流とする説が有力。
秀郷流波多野氏から出た高信とは系図を異にする)と高信との関係に
ついては、史料に乏しく詳細は不明である。なおこの沼田顕泰を後期
沼田氏、高信の氏祖である沼田七郎家通の甥沼田太郎を前期沼田氏(
前期、後期という用語は上野国に対して用いる)という(群馬県『沼
田町史』1952年)。
沼田太郎が拠った上野国利根庄は、嫡子沼田太郎(大友実秀)が早世
し、また父大友四郎経家には男子がいなかったため、娘利根局の子、
能直(祖父大友経家の後を嗣ぐ。父は斎院次官中親能原であるが、源
頼朝の子であるとの説もある)に譲られた。前期沼田氏の後継者たる
べき大友能直は、九州に下って有力大名として発展したが、南北朝時
代に至り、8代目の大友氏時が、利根の川場に引退したことは、実に
そのゆかりの地である祖先の故地に帰ったものとみることができる。
■沼田太郎右衛門高信と安養寺城勝興寺
「雲龍山勝興寺系譜」によれば、天正4年(1576年)に上杉謙信
(初名輝虎)は越中へ出陣し安養寺城を攻めるが、家臣沼田太郎右衛
門高信は上杉家の足軽大将長尾新吾為秀を討ち取った。その後扱いの
義があって、上杉家と和談に及んだとある。沼田太郎右衛門高信碑誌
にある高信と上杉謙信(輝虎)との戦いは、この「雲龍山勝興寺系譜
」から引用したものであろう。なお、上杉家の史料では越中出兵は天
正4年3月とあり、勝興寺文書の2月と食い違いを見せる。
また高信は上杉勢との同役で、丹治叔信(興法寺村葭谷城主)と刀を
合せ、葭谷にて長尾新吾為秀を討ち取った。この時の障檄の跡がその
後も残っていたという(宮永正運『越の下草』天明6年)。
■越中沼田氏
勝興寺の侍大将であった沼田太郎右衛門高信は、天正4年2月の上杉
謙信との戦役の功績により、寺主顕幸より蓑輪邑(現小矢部市蓑輪)
に8百俵の領地を賜ったという。
沼田太郎右衛門高信領地地図 本地図には、石碑のある猿尾崎から北二丁の地に東
西20軒、南北50軒の区画を描き、「沼田高信掻上之跡男高友代迄モ此所ニ居ス
」とある。さらに区画の北辺に「此筋ノ通リ高サ一丈許リノ土居」「三間計ノ堀在
之タル由」との注記がある。昭和33年にこの辺りから出た住居跡を富山県教育委
員会社会教育課の指導を得て砺中町(現小矢部市津沢)文化財保護委員会が調査し
たが、寺院址ではないかということで終わってしまった。
しかし高信の居館については高信碑誌に記録があるのみならず、天明6年(178
6年)の「越の下草」(加賀藩山廻役宮永正運著)でもこれを記録しており、是非
とも再調査を期待したい。高信碑誌を調査し報告文を書いた京田氏は、「土塁と濠
とがめぐらされており、例え沼田高信・高友の居館跡とは結びつかないにしても、
中世武家屋敷跡の感がある」(京田良志著「沼田太郎右衛門碑について」、ふるさ
との石仏第3集、小矢部市教育委員会、1982年)と述べ、本領地地図の記述と
の不思議な一致に注目している。また津沢の郷土史家で小矢部市文化財保護審査委
員のY氏は当時この発掘調査に携わったが、当時を振り返り「住居跡から推定され
る家の構えは、まさに武家屋敷そのものであった」と述べる。もちろん氏はこの住
居跡を高信の居館跡と今でも信じて疑わない。(小矢部市沼田総本家所蔵)
沼田高信は蓑輪邑に居館を構えたが、そこに従士12騎も居住した。
『沼田太郎右衛門』(亨保18年頃沼田将曹秀友著、沼田総本家蔵)
によれば、蓑輪、興法寺、安居寺三ケ村の農民を督励し、里余を隔て
る石黒村泉より三ケ年の日月を費やし、明神川の水を引いて開墾に使
したのは高信だという。現蓑輪の三ケ村用水である。
高信は蓑輪に根を下ろし、越中沼田氏の祖となった。なお氏祖沼田七
郎家通から沼田高信までは19代(沼田太郎右衛門高信碑誌には十有
五世とあるが)、今日の沼田総本家当主までは34代である。沼田総
本家は、現在も蓑輪の地にある。