■福野沼田姓 福野(現富山県東砺波郡福野町)は慶安3年(1650年)に、本 江村阿曽三右衛門らが加賀藩に町立てを願い出たのが町の起こりで あり、当初は福野新町と呼ばれた。場所は野尻野の追分というとこ ろで、改作法の頃より村方とされ、福野村と称した。 沼田一族が福野村に入ったのは比較的新しく、江戸時代末期のいど やさが最初である。 ●いどやさ 初代藤一郎。父西嶋村藤右衛門(2代目)か。水嶋村に分家。 後鷹栖村に転住。江戸に行商に出たため屋号はいどやさ(江戸 屋)。2代目宗一郎は福野村に転住。3代目宗一郎の弟小三郎 は同村に分家(屋号こさぶさ)。またその弟宗吉郎は福上村に 分家(屋号そうきちさ)。 ■福光沼田姓 福光町の沼田一族は、旧砺波郡岩木村に居住する。岩木村は古くは 福光城主石黒氏の石黒郷に属し、慶長年間には石黒郷14ケ村の中 に初見する。 ●沼田様 初代万右衛門。父清水村鴨嶋平兵衛(2代目)か。砺波郡岩木 村に分家。安永3年(1774年)、岩木村組合頭(「西勝寺 村岩木村出合用水堤水取分井堤方諸入用納得定書之事」寛政8 年6月岩木村方文書)。明治初期の4代目万右衛門まで村組合 頭。5代目万重は明治5年、姓を沼田とする。同6年、村組合 総代。同7年、村副戸長。屋号は「沼田様」。妻清水村鴨嶋平 兵衛(7代目)娘たつ。 ■庄川沼田姓 庄川町の沼田一族は比較的新しく大正末期の分家である。 ●沼田外次郎 初代沼田外次郎。津沢町沼田甚三郎(左次兵衛10代目) の3男。大正末期に庄川町青島に分家。 ■加賀沼田氏 加賀沼田氏は、江戸時代初期から明治初期に至るまで、加賀藩に陪 臣として使えた、沼田一族である。 ●初代沼田清左衛門長秀と市右衛門、太兵衛 「沼田太郎右衛門高信碑誌」によれば、蓑輪総本家沼田太兵衛 道友の子が清左衛門長秀で、加賀藩金沢に出向き、藩士神尾氏 に仕えた。 太兵衛道友の長男が太兵衛で蓑輪村に分家。武士であった太兵 衛道友の跡取りが分家したということで「あなた様」とも呼ば れた。次男は市右衛門で、蓑輪総本家を嗣いだ。3男が清左衛 門で、金沢に出て加賀沼田氏の祖となった。 ●2代目沼田将曹秀陳 寛文7年(1667年)5月生。天和2年、16才で加賀藩家 老津田玄蕃孟昭公に仕える。元禄11年、足軽頭。宝永6年知 行100石。
知行申付書状 2代目沼田将曹秀陳は初め加藤市郎右衛門の婿養子であった が、元禄5年(1692年)秋、加藤家を辞退し沼田姓を再称した。同年 9月、津田玄蕃公より新知六十石を賜り、同7年8月には十石加増となり 七十石を拝領した(元禄7年8月15日加賀藩家老津田玄蕃孟昭記、小矢 部市沼田総本家所蔵)
●3代目沼田将曹秀友 宝永6年10月6日生。享保6年2月、津田玄蕃公へ出仕。同 9年家督相続。御次番、御用人、御小将頭等を務める。同18 年10月16日、曾祖父太兵衛道友の入定の地、蓑輪村猿尾崎 に沼田太郎右衛門高信碑を建立。寛保2年12月28日、江戸 表御使者役。宝暦11年6月24日没。
沼田太郎右衛門高信碑 3代目沼田将曹秀友の手 により、曾祖父沼田太兵衛道友入定の地、蓑輪村 猿尾崎に石碑が建立された。(享保18年沼田将 曹秀友建立、小矢部市蓑輪)
●8代目沼田悟郎 幼名采江。文久元年に出仕。北越戦争、戊辰戦争に参役。明治 14年まで金沢に在住、後、千葉県東葛飾郡松戸町へ転住。名 を悟郎と改める。福山中学校校長。大正元年、津沢町蓑輪村沼 田孫三郎と共に、沼田太郎右衛門高信碑保存堂再建準備を進め るが、11月の建立を待たず逝去。 元10代目当主は茨城県に在住。 ■北海道沼田氏 北海道沼田氏は、砺波郡信西嶋村甚三郎を祖とする一族である。 北海道開拓の功労者としてその名が知られる沼田喜三郎翁もこの一 族の一人であって、今日の雨竜郡沼田町は、翁に敬意を表してその 氏号を町名に冠したものと伝えられる。
沼田町夜高あんどん祭 北海道沼田町は明治時代、現在の富山県小矢部市 新西(当時津沢町新西嶋村)に生まれた沼田喜三郎翁が砺波地方の人々を 募り、屯田兵として開拓した町で、沼田氏が開町の祖である。津沢地区と 沼田町の交流は数十年間続いており、昭和52年からは沼田町でも津沢の 名物「夜高」が行われるようになった。現在では、ねぶたで知られる斜里 町、八雲町と並び北海道の三大あんどん祭と呼ばれるようになった。
●新西嶋村甚三郎 父新西嶋村甚左衛門(じんざいさ5代目)。同村に分家。百姓 と大工を家業とする。弘化2年(1845年)新西嶋村方文書 に名が見える。4代目沼田甚三郎は大正5年2月、沼田町に転 入。同6年沼田倉庫株式会社、同8年沼田木材株式会社創立。 沼田町第2代郵便局長。5代目沼田忠は、沼田町教育委員長。 平成6年9月、沼田町開基百年にあたり、特別表彰受章。沼田 町開拓者遺族代表。名誉総代。 ●沼田町開拓の祖 沼田喜三郎翁 父新西嶋村甚三郎(初代)、3男。天保5年3月6日生。12 才で大工の徒弟となり、14才で庄下村矢木(現在の砺波市矢 木)の豪農根尾家に奉公人として入り、主人の供として度々江 戸に出て染工となった。26才で帰郷し、農業に専心。明治元 年に新西嶋村に分家した。同15年に北海道開拓のための第一 歩を踏み出す。同26年華族農場解散の際に、華族組合の一員 であった大谷伯(東本願寺)を説いて、伯の名義で現在の沼田 町に雨竜本願寺農場として1千余万坪の貸付を受け、資本金十 万円の開墾委託株式会社を組織した。自ら社長となり、翌27 年に砺波地方から18戸の移住を勧誘して出発し沼田町の基礎 を築く。大正11年、喜三郎翁の氏号にちなみ呼称を沼田村と する。同12年12月、92才没。
沼田町開祖 沼田喜三郎翁 明治27年に砺波地方から 18戸の移住を勧誘して沼田町の基礎を築く。大正11 年、喜三郎翁の氏号を村名に冠する。翁の没後の昭和2 9年、富山市における全国産業大博覧会の北海道館入口 には翁の大肖像と略歴が掲げられ、北海道開拓の大開拓 者として、その偉大な業績が県営されることとなった。