近江小谷城主浅井長政家臣団



●勇将  遠藤喜右衛門尉直経  
●猛将   磯野丹波守員昌   
●家老   赤尾美作守清綱   
 ●重臣   安養寺経世     


■家老 赤尾美作守清綱(あかお みまさかのかみきよつな)   浅井亮政、久政、長政と浅井家三代に仕えた。小谷城本丸のすぐ東  手に赤尾屋敷を構える重臣。浅井家三家老の一人。武勇に優れる。  戦いを好まず六角と和した久政とは折り合いが悪かったようで、永  禄3年(1560年)、数名の重臣と評定して久政を隠居させた(  『江濃記』)。清綱は孫三郎(一説に孫二郎とも)とも云い、後に  美作守と称した。                        1.赤尾清綱と浅井長政                      永禄3年、浅井長政は16歳の時、赤尾清綱、遠藤喜右衛門    養寺経世、丁野ら重心たちと評定し、父の久政を隠居させた。     永禄4年(1561年)3月、美濃に攻め入った美江寺川の戦い    では、浅井軍の撤退の際の殿(しんがり)を務めた。         姉川合戦および小谷城の戦いの際、織田信長は虎御前山に陣をし    いたが、それ以前は赤尾清綱の砦であった事を示す記述がある。    「虎御前山始赤尾美作守清綱陣城然姉川一戦之後右大臣信長公本    陣ト定ム」(「虎御前山古砦図」)。                元亀元年(1570年)6月の姉川合戦の際は、長政の本陣にあ    って遠藤喜右衛門安養寺経世らと旗本を指揮した。       2.赤尾清綱と同士討ち事件                      永禄4年(1561年)7月1日、箕浦城主今井定清は佐和山城    主磯野丹波守の加勢を得て、六角方に奪われていた太尾城を奪還    すべく夜襲を試みた。この作戦は遠藤喜右衛門の立案によるもの    で、喜右衛門の妹婿田辺式部をしてその主今井定清に勧めたもの    である。忍の者と田辺式部が密かに城中に侵入し、火の手をあげ、    それを合図に本丸、二の丸を一挙に攻める手はずが整っていた。    しかし忍の者が合図を数時間遅らせたため、焦った今井定清は遅    れてあがった火の手に闇夜を疾走したが、誤って磯野の兵に討た    れた。今井家はかつては浅井家と同列の京極家被官であっただけ    に、この同士討ちは大事件となった。田辺式部は嫌疑を受け、こ    れを避けるため小谷城の遠藤喜右衛門屋敷に身を寄せた。今井家    の家臣らは相議して小谷城に訴え出た。浅井長政は驚き、赤尾清    綱に命じて事態の収拾に乗り出した。磯野も自らの兵が誤って討    ったことが明らかになり、大いに驚き、今井家中に「悪意がなか    った」旨の謝罪文を送った。                  3.赤尾屋敷                            赤尾清綱の本貫地は木之元町赤尾である。              小谷城の桜馬場から本丸の東を通る小道を行くと小さな曲輪があ    る。これが赤尾清綱の赤尾屋敷である。小谷城落城の際には長政    は本丸から赤尾屋敷に逃れ、自害した。               下の写真は「小谷城図」の一部。赤尾孫二郎ヤシキと記される。  4.赤尾清綱と小谷城の戦い                      天正元年(1573年)、小谷城の戦いの際、浅井長政は本丸に    父久政は小丸に立て籠もった。木下藤吉郎は清水谷から大野土佐     守屋敷あたりを経て京極丸に突入、本丸と小丸の間は分断された。    本丸を攻められた長政は赤尾ヤシキに逃れ、妻(お市の方)と3    人の娘(茶々、初、小督)を信長のもとに送った後、自害した。    清綱はこの時、不本意にも生け捕られてしまった。信長の前に引    き出された清綱は自害を許され、子清冬は助けられたという。 

■重臣 安養寺経世(あんようじ つねよ)            浅井家の重臣の一人。浅井長政と織田信長の妹お市の方との縁談の  仲介役を務めたと云う。このため、姉川合戦で経世が捕らえられた  時も、信長は「お前とは仔細ある間柄ではないか」と首をはねず、  小谷城に帰した。この際の経世の報告で、最後まで踏み止まって討  死した遠藤喜右衛門ら多くの諸将、家臣の最期が伝えられた。長政  始め家臣一同は奮い立ち、天正元年に小谷城が落城するまでの3年  間、徹底抗戦を続ける。朝倉義景を始め、足利義昭、武田信玄、石  山本願寺とも結び、織田信長包囲網を築き上げる。三方ケ原の戦い   を始めとした信玄の上洛戦や石山合戦に代表される元亀騒乱である。  1.安養寺経世とお市の方                       織田信長の妹お市の方と浅井長政の婚姻の仲介をしたのが、織田    方の不破河内守光治、浅井方は安養寺経世であったという。また    『武功夜話』では、織田方の稲葉伊予守良通西美濃三人衆)、    浅井方の堀能登守(堀次郎の父)が立役者であったとする。一方、    『川角太閤記』では浅井家の重臣磯野氏の功績とする。        婚儀の時期についても永禄4年(1561年)、同7年、同10    年と諸説がある。現在有力な説は奥野高広氏によるもので、長政    が市橋長利に宛てた書状から、永禄10年(1567年)長政が    市橋長利を介して信長に接近を図ったとする。           於市の方画像   2.安養寺経世と姉川合戦                      安養寺経世は長政の旗本にあって兵を指揮していた。味方が負け    始め撤退した時もなお、敵中に踏み止まった。弟彦六、甚八郎も    奮戦したが敵手に倒れる。以下は『浅井三代記』の要約である。    経世は「もはや此処まで」と敵中へ駈入り、よき武者と取っ組み    合いその首をあげたが、信長の手勢4,5人に取り囲まれ生捕ら    れた。安養寺は信長の前へ引き出される。信長は声をかける、     「安養寺ではないか。久しぶりじゃ」                「何も申し上げる事はございませぬ。早く首をはねられよ」      「何故そんな事を言うのか。お前とは仔細ある間柄ではないか。    まずは当方の奪った首を見せよ」                  と信長が命じたので小姓どもは首をもってきた。           信長のもとに列べられた首を経世が見ると、討ち取られた2人の    弟があった。信長も経世の心中を察する。続く遠藤喜右衛門他首    数三十計を見終わって経世が言う、                 「随分時も経ちました。一刻も早く首をはねて下さい」        「いやいや、お前は一度既に長政に命を捨てたのだ。今日からは    この信長に貰った命だぞ。今から小谷に帰り、長政に無二の忠義    を尽くすのだ。ところでお前にもう一つ聞きたい。我らこのまま    小谷に押し寄せようと思うがどうじゃ。今日の戦で浅井の兵はも    はや役に立つまいから、小谷を落とすのに何の造作もあるまい」    「久政殿の手勢一千騎、井口越前守が五百余騎、千田采女正と西    野入道も二三百余騎をお持ちです。この新手千七、八百余騎は堅    く守っておりますので、そう簡単に城は落ちますまい」        これを聞いて信長は、                       「安養寺の申すところはもっともである。われらが兵も今日の戦    に疲れておる。またの日に攻めることにしよう」           と経世を許し、不破河内守に送らせて小谷城に帰した。    

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