近江小谷城主浅井長政家臣団

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最終更新日 Mar.08, 2011

小谷城主浅井長政画像

 近江小谷城主浅井長政家臣団  出 版 物          著 者 紹 介      


1.近江小谷城主浅井長政家臣団           

●勇将  遠藤喜右衛門尉直経 ●猛将   磯野丹波守員昌  ●家老   赤尾美作守清綱  ●重臣    安養寺経世   


■勇将 遠藤喜右衛門尉直経(えんどう きえもんのじょうなおつね) 浅井家きっての勇将で、知略家としても知られる。姉川合戦の際、 織田信長と刺し違えようとして織田本陣に入ったが、無念にも馬廻  衆の竹中久作(竹中半兵衛の舎弟)に討たれた話はあまりにも有名  である。                            1.遠藤喜右衛門は実在したか?                 遠藤喜右衛門については一級史料と認められている『信長公記』    や他の歴史史料にも言及があり、実在は疑いようがない。       また下の絵は滋賀県指定文化財の三十六歌仙絵であるが、これに    は「奉掛之 遠藤喜右衛門尉直経敬白 永禄十二年十一月吉日」     とあり奉納者が遠藤喜右衛門であったことを示す(多賀大社蔵)。       2.遠藤喜右衛門由緒                      先祖は鎌倉武士で、柏原庄(滋賀県坂田郡山東町柏原)に所領を    得て移住したという。喜右衛門の父は遠藤主膳で、亮政が京極家    の被官であった頃から浅井家に仕えた。譜代家臣である。主膳の 娘は同じく京極氏の被官であった今井定清の家臣田辺式部に嫁い    だ。喜右衛門には男子が二人または三人あったと見られる。長男    の遠藤孫作は、元亀元年(1570年)6月19日、織田軍配下    の木下藤吉郎に攻められ、喜右衛門の居城須川城を守るも落城、    やむなく藤吉郎に降った。後に孫作は伊勢(三重県)三重郡で知    行を賜った。弟の喜三郎は難を逃れ、姉川合戦、小谷城の戦いに    も参役したが、主家の滅亡後、加賀の一向一揆と結ぶも敗れ、流    浪の末に越中(富山県)礪波郡で帰農した。なお昭和初期まで須    川に居住した遠藤家も遠藤一族ではあるが、喜右衛門の胤かは不    明である。                            下の写真は須川山砦跡である(「滋賀県中世城郭分布調査報告書    」より)。須川山砦は長比砦眼下の須川山の山頂にあり、尾根伝    いで長比砦とは約300メートルの距離にあった。須川山砦は須    川城の出城であり、遠藤喜右衛門が築いたと見られている。      下の写真は須川観音堂(滋賀県坂田郡山東町須川)。遠藤一族の    祖遠藤菅勝によって承久元年(1219年)に建てられた。この    左手一帯が遠藤氏居城の須川城であった。            3.遠藤喜右衛門と浅井長政                   永禄3年(1560年)16才の長政は、江南の六角義賢の家臣    平井定武の娘を押しつけられ婚約させられた。しかも父久政は舅    の平井に挨拶してくるよう命じた。賢政は父の無神経さに腹がた    ち、娘を平井に送り返す事を考えたが、この時に相談したのが喜    右衛門と浅井玄蕃であった。喜右衛門は長政の側近であった。     また同年、長政が久政を隠居させるための評定をした時にも、    、百々、安養寺らの他に喜右衛門もいた。             喜右衛門は小谷城下の清水谷に屋敷を構え、専らそこに住んだ。    本貫地の須川は長男の孫作に任せていたようである。小谷城下に    屋敷を構えたのは、筆頭家老の赤尾清綱磯野丹波守、木村日向    守らの重臣クラスであって、家臣すべてがこれらの武家屋敷に集    められていたわけではない。                    姉川合戦の折り、浅井長政の本陣は近習衆の他に赤尾清綱、遠藤    喜右衛門が務めたことを記す絵図がある(長浜市木村氏蔵姉川合     戦図)。喜右衛門は長政の参謀として兵を指揮していたのである。    下の写真は「小谷古城図」の一部。清水谷に遠藤喜右衛門の名が    見える。                           4.遠藤喜右衛門と伊賀忍者                   遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した    甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った    傭兵であったとする。これを裏付ける史料は今のところないが、    喜右衛門が甲賀者ならぬ伊賀忍者と結んでいたのは史実のようで    ある。                              永禄4年(1561年)、箕浦城主今井定清は六角義賢の太尾城    を攻めたが、この作戦は喜右衛門の立案であった。田辺式部は伊    賀忍者と共に太尾城に忍び込んで、合図の火の手をあげたとある    ことからして、明らかに喜右衛門と伊賀忍者は結びついていたよ    うである。                            ■補足(2010.3.8)                        「箕浦城主今井定清は、六角方に奪われた太尾城を奪還すべく、     佐和山城(太尾城の隣城)主磯野員昌の加勢を得て夜襲を試みた。    これは喜右衛門の立案で、田辺式部をしてその主今井に勧めたも    のである。田辺式部は忍の者(伊賀忍者)とともに城中に侵入し    た。」(『三田村物語』第12章)                 「田辺は小谷より帰り、伊賀の忍びの者を密かに近付け、内々頼     み入る事あり。明晩忍び入べきのよし堅契約し」(『浅井三代記』    第十)                            5.遠藤喜右衛門と横山城                   横山城は京極氏の支城として築かれ、永正14年(1517年)    に浅井亮政の攻撃を受け落城した。永禄4年、浅井長政は江南へ    の進出拠点として横山城の大改築が必要となり、喜右衛門にこれ    を命じた。大原観音寺には永禄4年2月10日付遠藤直経書状が    あり、これに「縄之義其寺へ申懸らせ」とあるのが城修築の根拠    である。この横山城は後に、姉川合戦のかけひきの舞台となる。    元亀元年の姉川合戦に備えて横山城を守ったのは、『武功夜話』    によると喜右衛門の妹婿田辺式部である。これも喜右衛門が横山    城を修復した事と関係あるのかもしれない。ただ、通説では横山    城は大野木、三田村、野村の三将が守ったとされるが、これも元    亀元年からの駐屯である。それまでは田辺が守っていたと思われ    る。                            6.遠藤喜右衛門と大依山砦                 遠藤喜右衛門が元亀元年、姉川合戦に備えて大依山の守将となっ    たというのが定説であるが、『武功夜話』によれば、もともと喜    右衛門は近江と美濃の国境にある苅安砦と長比砦の防御を任され    ていた。ところが金ケ崎の戦いで織田軍を追撃していた朝倉軍が    兵を収めると、朝倉軍は近濃国境の両砦に入った。長政は越前衆    を苅安砦と長比砦に入れ要害を構えたと『信長公記』にある。確    かに後の発掘調査でも長比砦から、朝倉家独自の築城技術の跡が     発見されているので、朝倉郡が長比砦に入城したのは事実である。     とすれば朝倉軍が両砦に入った時喜右衛門はどうしたのか。そう、    喜右衛門はこれを機に大依山まで退くのである。           喜右衛門は塩津和泉守とともに、大依山に砦を築く。下の絵図は    「江陽浅井郡小谷山古城図」の一部。大依山に遠藤喜右衛門と塩    津和泉守の名が見える。                      結果的には両砦は木下藤吉郎の調略により、城将樋口三郎兵衛が    織田方に寝返り、朝倉軍が逃亡した事により陥落する。長比砦の    麓にあった須川城も陥落し、一族の者、家臣は皆討死または捕虜    となった。喜右衛門は朝倉軍に対する不信感を募らせる。       姉川合戦では、浅井軍と朝倉軍は大依山に陣をしいた。軍評定で    は戦術を巡り、長政と浅井半助が対立した。ここで守将の喜右衛    門が「殿のご軍議がまことに至当である。合戦して敵陣を破りし    折りには、敵陣に紛れ込み信長を討ち果たしてみせる。何を猶予    なさるか」と進言、評議は決し、長政は姉川に向かって進軍を命    じた。                              下の写真は大依山。                          7.遠藤喜右衛門と織田信長                   永禄11年(1568年)織田信長は浅井長政と佐和山城で対面    した。喜右衛門もここに陪席していたが、信長の           「よく聞かれよ。いずれは長政殿とそれがしの二人で日本国を治    める。その時は各々方も大名に取り立てよう」            という言葉に疑念を抱き、浅井家との縁組みが謀計から出た者と    の確信を深めた。                         この夜、信長は宿営先の柏原に向かったが、接待役を遠藤喜右衛    門ら3名が務めた。喜右衛門は夜、信長が寝静まったのを見計ら    って小谷に馳せ帰り、信長を討ち果たすべしと訴えるが、長政は    応じない。喜右衛門は切歯して柏原の成菩提院に戻った。       下の写真は信長と長政の対面の様子。喜右衛門は左から3人目。    絵本太閤記(物語)。                       元亀元年(1570年)6月28日、すでに浅井軍が敗走し、織    田軍が5キロメートルも追討している最中のことであった。敵に    紛れ喜右衛門が味方の将の首をひっさげ、信長の本陣に向かう。    郎党富田才八も援護する。少し遅れて弓削六郎左衛門、今村掃部    助も後を追う。喜右衛門は「御大将は何処に御座すぞ」と大声を    あげて、信長の面前十間まで迫る。                 信長の側にいた馬廻竹中久作は、脇目を多く使うこの男は敵ぞ、    と見破り、喜右衛門に組み付く。上を下へと返すが、遂に組み伏    せ喜右衛門の頸をあげた。                     馬廻は信長の警護役であるから、喜右衛門が久作に討たれたとの    『信長公記』の記録は、喜右衛門が敵中奥深く突き進み、織田信    長本陣に肉薄したことを裏付けている。                下の写真は遠藤塚。喜右衛門の果てた地(長浜市垣篭町)に立ち、    毎年7月に法要が執り行われる。小字は円藤。むかしは遠藤草と    云った。奥の小山は信長が陣をしいた竜ケ鼻。合戦当日は信長は    山を下り、この円藤の辺りで指揮を執ったとされる。       8.遠藤喜右衛門と竹中兄弟                   永禄7年(1564年)、竹中半兵衛重治と弟久作は一度は斉藤    龍興から奪った美濃稲葉山城を返し、近江浅井家を頼り家臣樋口    三郎兵衛方に身を寄せた。                     これ以上の詳しい記録はないが、喜右衛門は長政の側近であった    から竹中兄弟ともこの時会ったはずである。竹中兄弟は少なくと    も1年間は浅井家に身を寄せていたというから、浅井家の軍略の    中枢に喜右衛門がいる事を見抜いたであろう。後に竹中久作が「    遠藤喜右衛門の頸を取るべし」と高言するようになったのはこの    ためである。                       

■猛将 磯野丹波守員昌(いその たんばのかみかずまさ)     湖北にその名を轟かせた猛将。六角との最前線佐和山城の城主。姉  川合戦では浅井軍の先陣を務め、織田軍2万3千の13段の陣備え  を、1千5百の精鋭の兵で11段まで打ち破った。浅井本隊が敗走  し敵に退路を断たれた際もひるまず、織田軍3隊の正面を次々と敵  前突破、残兵僅か三百騎とともに見事佐和山城に帰還した。     1.磯野員昌と浅井長政                      磯野丹波守の本貫地は伊香郡高月町磯野で、累代磯野城を居城と    した。員昌の代になり、浅井氏に仕えた。永禄4年(1561年    )、佐和山城主となった。                     磯野丹波守も他の重臣たちと同様、小谷城下に屋敷を構えた。     その屋敷は本町通から清水谷通に入る岐路にあった。         姉川合戦の後、佐和山城は織田軍に包囲され孤立した。長政は員    昌が織田信長に内通しているという情報に惑わされ、援軍を送ら    なかった。このため磯野丹波守はやむなく信長に降伏した(元亀    2年2月)。                           その後磯野丹波守は信長より近江高島郡を与えられる。丹波守は    高島に隠れていた、かつて信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえ、    天正元年(1573年)9月に岐阜へ引き出した。        2.磯野員昌と佐和山城                      西美濃三人衆(安藤伊賀守、稲葉伊予守、氏家常陸介)が織田方    に内通していると見た美濃斉藤龍興の側近、日根野備中守は浅井    賢政(長政)に使者を遣わし、美濃への出兵を要請した。賢政の    伯母あふみが斉藤龍興の室であり、浅井家と斉藤家は親戚であっ    た。西美濃三人衆の造反で織田に降る位なら、いっその事浅井を    美濃に迎え、織田軍と戦おうという計画である。           永禄4年(1561年)3月中旬、賢政はこれに応じ七千余騎を    率いて美濃へ出兵した。浅井軍は関ケ原を越え美江寺川まで攻め    込んだ。                             六角義賢は浅井の留守を衝いて佐和山城を攻め、城将百々内蔵助     を討ち取った。賢政は兵を急いで返し、再び佐和山城を奪還した。    以後、佐和山城の城将には磯野丹波守が就く。なお六角と結んで    いた美濃岩手城の竹中重元は、この時、浅井の背後を突くべく、    大原口、苅安砦へ攻め入った。重元の長男半兵衛重治もこれに参    役している。                           賢政はこの後の5月、名を長政と改名し名実ともに六角と決別を    果たした。                          3.磯野員昌と姉川合戦                      元亀元年(1570年)5月、金ケ崎で織田、徳川軍を取り逃が    したのを受けて、長政は近江と美濃の国境を封鎖した。国境にあ    る苅安、長比の両砦は遠藤喜右衛門が、能登勢在郷鎌羽の諸城は    堀次郎、樋口三郎兵衛、喜右衛門が、箕浦城と佐和山城は磯野丹    波守が守りを固めた(『武功夜話』)。ただその後、長政は朝倉    勢を苅安と長比の両砦に入れたため、喜右衛門は大依山まで退い    た。それで両砦は堀次郎、堀の守役樋口三郎兵衛が城将となった    が、樋口の客将で長亭軒城に身を寄せていた竹中半兵衛が木下藤    吉郎の調略に呼応したため、樋口、堀も織田方に寝返った。      このため6月19日に苅安、長比砦は落城、ついに近江に織田軍    の侵攻を許したのである。21日、虎御前山に陣をしいた織田軍    は、長政をおびき出すため小谷城下に火を放った。この時、木下     隊は兵二千五百、堀、樋口の手勢五百の計三千人の兵であったが、    江北の地理に精通する樋口を先導案内として、小谷城下の町屋か    ら山谷隅々までを駆回り、めぼしいものは焼き払い、田畑を薙ぎ    伏せた。業火の黒煙は太陽を遮ったとある。              しかし長政は動かなかった。そこで信長は長政をおびき出すため、    横山城への総攻撃に切り換え、姉川南側で横山の北端にある竜ケ    鼻に陣を移した。攻防三日の末、救援要請の急使が横山城から小    谷城へ走る。これを受けた長政は、兵八千を率いて姉川北側の     依山に布陣した。援軍の朝倉軍一万も27日、大依山に到着した。    浅井、朝倉軍は28日朝に攻撃開始と定め、夜半に大依山から姉     川北岸に移動した。これに気付いた織田、徳川軍も部署を定めた。    同じ頃、木下藤吉郎隊は三千の兵を率いて横山から姉川南岸に移    動し、柴田隊、佐久間隊に続いて布陣した。夜が明けた頃、朝も    やの中にうっすらと対岸の磯野隊の旗じるしが見える。木下藤吉      郎は、    「磯野丹波守、犬上郡の猛将と評判の武者。しかるに先日は彼の    領地へ乱入し、家々を焼き払った。おまけに翻った堀次郎と樋口    三郎兵衛は我が隊にいる。磯野隊が我が隊めがけて遮二無二懸か    って来るのは必定」                        と懸念を示し、竹中半兵衛に作を仰いだ。              6月28日朝、野村では浅井長政が兵八千をもって、姉川対岸の    織田軍二万三千と睨み合っていた。すでに姉川の西側では朝倉軍    と徳川軍の戦闘が始まって3時間近くになり、数に勝る朝倉軍が    徳川軍を推していた。午前9時(辰五ツ半)、浅井、織田両軍の    鉄砲の音が天地に響き渡る。浅井の先陣磯野丹波守は一千五百の    兵で瞬く間に渡河し、織田の先陣坂井政尚の陣備えを無人のごと    くに駆け抜けた。員昌は坂井以下織田軍十三段の陣備えを十一段    まで次々と打ち破る。磯野丹波守に、浅井玄蕃、阿閉貞秀、新庄    直頼らの隊が続き、長政の本陣も敵陣に突っ込む。手負い討死そ    の数おびただしく、織田軍は総崩れ寸前であった。ただ竹中半兵    衛の指示で横一陣を改め円弧の陣をしいた木下藤吉郎隊だけがも    ち応え、後に藤吉郎は信長から大いに賞讃された。藤吉郎の陣は    信長本陣から一町半(百五十メートル)しか離れていなかったか    らである。                            長政は大声で下知する、                      「敵の旗本を崩せ!」                       浅井軍は織田本陣に突入し、信長の馬廻衆も手合い、敵味方入り    乱れて乱戦となった。佐々成政の鉄砲隊三百有余挺、真黒になり    撃ち続けるが、もはや何の役にも立たない程であったと『武功夜    話』は記すから、織田軍は敗北寸前であったのであろう。       この時、徳川軍がそれまでの劣勢を盛り返し、一気に朝倉軍を打     ち破った。このため徳川軍の援兵であった稲葉伊予守の兵一千は、    織田軍の危ないのを見て、浅井軍の右翼を突いた。横山城の抑え    に置かれていた氏家常陸介、安藤伊賀守も計二千騎で駆けつけ浅    井軍の左翼を突いた。三面から攻撃を受けた浅井軍はたまらず総    崩れとなり、小谷城まで潰走した。                 浅井の先陣磯野丹波守は敵中奥深く力戦していたが、背後が塞が     れたのを見て取った。丹波守は兵を収める。退路を遮断されたが、    敵の前面を突破して佐和山城に帰ろうという作戦である。丹波守    はまず前面の氏家常陸介の陣を突破、続いて安藤伊賀守の陣も突    破した。さらに行く手を阻もうと向かってきた稲葉伊予守の兵と    も激しく戦い、遂にこれをも突破、残兵僅か三百騎で佐和山城に    帰還した。                        

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