神島の歴史


神島の歴史

神島のはじまり

   円光寺の由緒によると、先祖は越後国蒲原郡藤田之庄を領していた藤田播磨守貞信で、南北朝の中ごろに来住してこのあたりを開拓したという。また、神職河合氏は明治の復飾以前はこの地方には数少ない本山派の修験で、由緒によると南北朝のころ京都から来住したと伝える。神島の地名はもと上島と書き、中村のうち上の方に位置したからという(『砺波市史資料編5』平成8年刊より)。
   藤田貞信の一族郎党に上保監物行則、薮年勝、佳虎池重兵衛などがあって、上保氏の後裔は豪農となり一族に加賀見氏があり、薮氏の後裔は又兵衛といい、また佳虎池氏の一族に下保、池田両氏がある。遠藤氏は浅井長政の家臣遠藤喜右衛門尉直経の後裔なりと伝えられる(『出町のあゆみ』昭和24年刊より)。

多賀大社
遠藤喜右衛門尉直経が永禄12年に多賀大社
に奉納した36歌仙絵(滋賀県指定文化財)

神島の草高

   神島は中世に開かれた古い村で、江戸時代以降は加賀藩に属した。正保3年(1646年)の草高は840石、明暦2年(1656年)の草高は1003石であった。享保17年(1732年)には1047石に達し、以後、幕末まで増減はない(『砺波市史資料編5』平成8年刊より)。近隣の村々が江戸時代末期まで新田開拓が進められたことを考えると、神島の開拓は比較的早く終わったといえる。
   神島で最大の草高を有したのは、寛文10年(1670年)の仁右衛門(遠藤本家)の100石であった。

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神島村御印(寛文10年)

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元禄時代の草高帳。仁右衛門(遠藤本家)、久兵衛(吉田)、清兵衛(沼田)
らの名がある(「組下五拾八ケ村百姓持高帳」埴生村傳右衛門/元禄14年)

神島の地図

   神島村の東には鷹栖出村、深江村、南には鷹栖村、西には不動島村、西中村、北には狐島村があります。神島には上反保、中島、野割、鼓ケ堂、西反保の小字があります。東中西北という組名は、明治になってから付けられました。
   家の数は、江戸時代のはじめに16戸、江戸時代中頃に25戸、明治時代には83戸を数えました。現在は180戸で人口約700人です。

歴史02
「野尻組神嶋村領形絵図」(安政5年/『砺波市史資料編5』所収)

神島の歴史探訪1(多賀大社36歌仙絵)

神島遠藤家ルーツ調査団

  5月17日、神島遠藤家ルーツ調査団一行は、戦国時代末期に姉川の戦いで討死した遠藤喜右衛門尉直経の縁の地を訪ねるべく滋賀県へと向かった。一行は団長遠藤元成(遠藤喜右衛門子孫)、河合多久己(神嶋神社宮司)、沼田宗四郎(遠藤氏縁戚)、浜口康之(遠藤氏友人)、沼田宗敏(神島のれきし編纂委員)の五名。長浜ICで降りた一行は一路遠藤喜右衛門が果てた地を目指す。

遠藤塚(長浜市垣籠町)

  横山から北へ伸びる丘陵・竜ケ鼻北端のすぐ西側の田圃の中に遠藤塚があった。塚の脇には「姉川の合戦・遠藤直経の墓」と書かれた大きな案内板があり、今でも討死の地が保存されていることに一同大きな感銘を受けた。これによれば、この地の小字を「遠藤」といい、毎年七月の命日には地元の人々による追悼法要が執り行われているという。頭が下がる思いであった。  姉川の戦いにあたり織田信長は竜ケ鼻に陣を構えたが、合戦当日は山を下り、この辺りで指揮を執った。史料「信長公記」によれば喜右衛門は竹中久作に討たれたとあり、久作は信長の護衛役であったことから、喜右衛門は信長と刺し違える覚悟であったと思われる。このことを遠藤塚の場所が裏付けている。  「神島のれきし」によると、喜右衛門討死の後、子の喜三郎は石山本願寺で神島から参役した藤田一族らと共に織田軍と戦う。それが縁で遠藤氏が神島に来るようになったものという。

遠藤喜右衛門討死の地
遠藤喜右衛門討死の地(滋賀県長浜市垣籠町)

遠藤塚案内板 遠藤塚案内板
遠藤塚の傍らに立つ案内板

須川城址(米原市須川)

  遠藤氏は鎌倉時代に近江国坂田郡須川(米原市須川)に定着した。現在も残る観音堂の左手一帯が須川城址である。喜右衛門はこの地に平城を構え、奥の須川山の山頂には山城の須川山砦を築いた。美濃と近江の国境にある防衛の要である。なお、須川観音堂に関しては彦根市教育委員会文化財部の谷口徹先生(須川在住)より詳細な説明を受けることができた。観音堂のご本尊は喜右衛門が奉納したものともいい、今も須川の人々により守られている。

須川観音堂
須川観音堂(滋賀県米原市須川)

成菩提院(米原市柏原)

  「浅井三代記」によると、織田信長が近江を訪れた際の宿所が柏原の成菩提院(天台宗)で、この時の浅井方の接待役は三名。その筆頭が喜右衛門であったという。喜右衛門の法名はこの成菩提院に残る。ただ、かつて須川にあった喜右衛門の詣墓が無縁仏となり、境内の片隅にあったことには大きな衝撃を受けた。

成菩提院
谷口先生と成菩提院にて(米原市柏原)

徳源院(米原市清滝)

  谷口先生の先導で車は旧中山道を上り、京極氏の菩提寺である徳源院へと向かった。京極氏は佐々木源氏の一つで、浅井氏が台頭するまでは北近江を支配していた。遠藤氏もかつては京極氏の家臣であった。徳源院境内の裏手には歴代当主の墓三十余基があり、整然と並ぶ威容にただただ圧倒されるばかりだった。

徳源院
徳源院庭園(滋賀県指定名勝)

多賀大社(犬上郡多賀町)

  谷口先生と別れた一行は、探訪紀行の最終目的地である多賀大社へと向かった。「神島のれきし」によると、多賀大社には遠藤喜右衛門が奉納した三十六歌仙絵が保管されている。今回、神嶋神社河合多久己宮司の紹介により、三年越しの三十六歌仙絵拝観が実現した。 「古事記」に、日本の創造神であるイザナギは「多賀に座す」とある。このような由緒から、多賀大社はイザナギ・イザナミ神を祀る近江国第一の大社となっている。この多賀大社には、太閤秀吉や武田信玄からの書状、徳川家奉納の大太刀など数々の社宝がある。その中でも三十六歌仙絵は別格の扱いを受けている。

多賀大社
多賀大社拝殿前で(犬上郡多賀町)

三十六歌仙絵(滋賀県指定文化財)

  社務所から貴賓室へ通された一行は、木村光伸権宮司と面会した。木村権宮司は国史全般への造詣が深く、遠藤喜右衛門についても須川観音堂を訪れるなど多くの時間を割いて調査してこられた方である。本殿における特別祈祷の後、今回特別に出していただいた三十六歌仙絵屏風を拝観した。三十六歌仙絵は、織田信長との間にいずれ起きるであろう戦を予見した喜右衛門が武運長久を願って多賀大社に奉納したものと言われている。この半年後、浅井・朝倉は織田・徳川と姉川で戦い、遠藤喜右衛門は信長本陣まで奥深く斬り進み壮絶な死を遂げた。  その忠義あふれる奮戦は今なお語り継がれ、遠藤塚や観音堂など縁の地は今も守り続けられている。

三十六歌仙絵
多賀大社貴賓室にて(木村権宮司と)

三十六歌仙絵
三十六歌仙絵と(右より浜口、沼田、木村権宮司、遠藤元成、稲毛権禰宜、河合、沼田)

三十六歌仙絵
遠藤喜右衛門尉直経の銘文(永禄12年奉納)

神島の民俗

朱の池

   神島の西組に池の跡があるが、ここは昔俵藤太が蛇を放していった池と伝えられている。この家に覚池が屋敷を開いたときに、壺がでてきた。それを池に放り込んだところ、壺の中から朱が出てきて、池が真っ赤になった。そして、池から蛇が飛び立って、城端の縄ケ池に降りた。7月21日がこの地方で有名な井波の瑞泉寺太子伝会であるが、その25日から28日の間には縄ケ池の蛇が参りに行くという(「日本海沿岸地方村落における民俗の地域差に関する調査研究」福田アジオ/平成9年刊より)。

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朱の池(神島西組 旧覚池屋敷)

肝煎

   江戸時代は前田の殿様が、砺波野を治めていました。神島は加賀藩でした(越中砺波郡神嶋村)。村のまとめ役は庄屋ですが、加賀藩では肝煎と呼んでいました。

  ・正徳元年(1711年) 仁右衛門(旧遠藤本家)
  ・享保17年(1732年) 市右衛門(上保本家)
  ・寛政元年(1789年) 仁左衛門(矢農家)
  ・文政7年 (1818年) 与兵衛(旧神島本家)
  ・文政9年 (1826年) 仁左衛門(矢農家)
  ・天保9年 (1838年) 三右衛門(加賀見本家)
  ・嘉永7年 (1854年)  彦兵衛(遠藤本家)
  ・文久3年 (1863年) 三右衛門(加賀見本家)
  ・文久4年 (1864年)  与兵衛(旧神島本家)
  ・明治2年 (1869年)  与兵衛(旧神島本家)
 明治5年に肝煎制度はなくなりました。

区長・自治会長

   江戸時代の肝煎は、戦前には区長と呼ばれていた。区長は十人衆(高持の上位十人)の中から決めていた。その後、部落長、そして自治会長という名称になった。現在の自治会長は、総会で選出される(「日本海沿岸地方村落における民俗の地域差に関する調査研究」福田アジオ著より)。


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