郷土の人


財界人 遠藤石太郎

遠藤石太郎

慶応元年生。加賀藩越中国礪波郡神嶋村遠藤与三松四男。18才の頃北海道へ
渡り、刻苦奮闘、遂に巨万の富を積み、札幌市の商工会頭、北海道水力電気(
現在の北海道電力)、石狩川汽船その他各社の重役を兼ねる。富山県人随一の
成功者としてうたわれる。

結核の特効薬の工業化 高木外次

高木外次

明治35年、出町神島高木太八郎の嫡男として生れる。旧制砺波中学卒業後、
早稲田大学、東北帝国大学で学ぶ。国立東京工業試験所(現在の産業技術総合
研究所)に勤務。理学博士。保土ヶ谷化学工業褐、究所長となり、結核の特効
薬の工業化に成功。その功績により、昭和41年紫綬褒章受賞。山形大学工学
部教授。46年、勲三等瑞宝章受賞。皇居で行われた園遊会に出席。昭和60
年没。

日本画壇の巨匠 下保昭 画伯

昭和2年生まれ。富山県砺波市神島出身。京都府在住。西山翠嶂に師事。日展
特選や菊華賞を受賞し、日展評議員を務める。昭和60年芸術選奨文部大臣賞
受賞。中国の壮大な自然を描く独自の水墨画の世界を確立し、日本画壇の第一
人者として知られる。富山県水墨美術館は平成5年2月、下保昭画伯の作品百点
が富山県に寄贈されたのを受け、もともとは「下保昭美術館」構想が契機とな
ってスタートしたものである。近年は中国で、日本人初の個展を開き大成功を
おさめた。平成16年、二子山部屋から名称変更した貴乃花部屋に掲げられた
看板の力強い文字は画伯の直筆によるもの。同年旭日小授賞を受賞。 

画伯02
下保昭画伯と川田勉神栄会長(神栄会20周年パーティで)

瑞泉寺 輪番 藤田誓寿

昭和4年砺波市神島生。円光寺住職。砺波市議会議員、砺波市教育長(16年
在職)を歴任。砺波市行政功労表彰、文部大臣表彰。平成14年より北陸随一
の大伽藍を誇る瑞泉寺(旧井波町)の輪番に就いた。

瑞泉寺
本願寺第5世綽如上人の開創、後小松天皇
の勅願所としての由緒を持つ古刹 瑞泉寺

プロジェクトX 澤井政夫(前田建設)

昭和9年、砺波市神島の十代目太田松平の四男として生まれる。昭和32年前
田建設工業に入社。昭和40年、タイ北部、ミャンマーとの国境近くの密林に
分け入り、「アジアハイウェー」建設を担当。これは、国連が決めた戦後最大
の道路建設計画で、日本から初の挑戦だった。しかし、ジャングルは想像を絶
していた。とても重機が入らない。ならば、手作業で伐採しようと分け入ると
、巨大コブラが次々襲って来た。この密林は世界有数のコブラ地帯であった。
うっそうと茂る巨木、摂氏50度を超えるしゃく熱世界。男たちの熱い戦いが
始まった…(NHK「プロジェクトX 挑戦者たち」アジアハイウェー ジャ
ングルの死闘:平成16年10月26日放映)。

澤井01
タイに乗り込んだ前田建設のメンバーたち。前列左から2人目が澤井。
NHK「プロジェクトX 挑戦者たち」(平成16年10月26日放映)より。
澤井02
作家 曽野綾子が「地獄のような現場」と表現したタイの現場で。
曽野綾子の隣は澤井政夫。この時の取材内容は『無名碑』(講談
社刊・昭和44年)に収録された。
澤井02
瀬島龍三先生(第二次行革審会長代理)と

防犯のパイオニア 吉田一衛

昭和10年、砺波市神島吉田昌平の長男として生まれる。福野高校卒業後、潟g
ヤマキカイ(後の日平トヤマ、現コマツNTC)に入社。総務部長、人事部長、
資材部長を務め、人材の育成・労使関係の改善に努める。また、潟fィエスケイ、
潟鴻[フテクノロジーを設立し、両社で常務取締役を歴任。平成10年2月、神
島自治会長に就任し「10年後の神島」と題した1枚の絵を総会で提示。@新し
い公民館、Aお年寄りに学ぶ子供の姿、Bクリーン大作戦、Cホームページ発信、
という4つのスローガンを掲げ 、人と人のふれあう自治会作りを強力に推進。ス
ローガンは後継自治会長にも引き継がれ、わずか8年間で達成された。こうして、
出町の一地区に過ぎなかった神島を、県下でも注目される地区にまで引き上げた。
平成14年出町自治振興会副会長、18年に出町防犯組合長に就任。砺波市の犯
罪の大半を占める出町地区の防犯を強化するため、児童の街頭監視に加え、街頭
パトロールの強化、青色回転灯付パトロールカーによる定期巡回、100名規模の夜
間警戒などを実施した。これらの取り組みにより、18年度には砺波市の犯罪件
数は20lの減少となた。これは砺波市のみならず富山県の防犯活動の模範とな
り、吉田氏は推されて砺波市防犯パトロール隊連絡協議会長、富山県防犯パトロ
ール隊連絡協議会副会長(24年より会長)に就任した。これらの功績により、
平成21年富山風雪賞を受賞した。砺波市社会福祉協議会会長も務める。

富山風雪賞受賞披露パーティ
お祝いの言葉を述べる上田信雅砺波市長(2009年11月21日富山風雪賞受賞祝賀会)

書き換え可能光ディスク開発者 吉田富夫(松下電器)

昭和16年、砺波市神島吉田昌平の二男として生まれる(長兄は吉田一衛)。砺
波高校、大阪大学工学部を卒業し松下電器産業鰍ノ入社。当時の技術進歩の流れ
はあまりにも広大で速いものがあった。1970年代の後半、このような技術進
歩の激流にもまれながらも、自分達らしい新しい技術の流れを創り出したいと思
う男たちがいた。松下電器中央研究所に配属となった吉田富夫とその仲間たちで
あった。男たちはプロジェクトの目標を、まだ誰も作ったことのない、レーザを
用いた書き換え可能光ディスクに定めた。最初は1ミリの間に1000個ほどの
微小な跡をつけ、これを消し、再度記録する等々、亀のような歩みから始めた。
基本的課題を確認するかたわら、商品化・実用化への多くの課題を解決し乗り越
えた。また、国際的な理解を得るため規格化・標準化の活動にも注力した。この
ように仲間たちと進めてきた光ディスク記録技術は、さらに多くの専門家たちの
能力を結集し、今日の爆発的ヒット商品DVDレコーダを生み出した。
 「長い道のりでしたが、企業における技術者冥利につきる仕事だった」と吉田
は当時を振り返る。平成2年〜3年、光ディスク国際会議の日本代表。平成10
年〜15年、奈良先端科学技術大学院大学非常勤講師。

光ディスク吉田1 光ディスク吉田1
光ディスク開発者吉田富夫       DVDレコーダ(2001年頃のもの)

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